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        <title>松本徹三(Tetsuzo Matsumoto)のブログ－日本の情報通信産業の将来を考える</title>
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        <description>松本徹三(Tetsuzo Matsumoto)のブログ－日本の情報通信産業の将来を考える</description>
        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2008</copyright>
        <lastBuildDate>Mon, 18 Aug 2008 16:51:18 +0900</lastBuildDate>
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            <title>閑話休題：　平野啓一郎氏の「決壊」を読んで</title>
            <description><![CDATA[<p>平野啓一郎さんの1500枚の大作「決壊」上下巻を、大変面白く読みました。</p>
<p>この小説には、現代社会が抱える色々な問題がびっしりと詰め込まれていますが、その主題は哲学的にとても深く、極めて読み応えのある本でした。</p>
<p>平野さんは、10年前の京大法学部在学中に「日蝕」で芥川賞を受賞、その過程で、居並ぶ審査員の先生方が異口同音に「久々の本格派」と誉めそやした程の鬼才ですが、若い方だけに、ネット社会に対する感覚も鋭敏です。そして、この小説の中でも、それが重要な役割を果たしています。</p>
<p>ストーリーはミステリー仕立てで進むので、読者は次の展開を求めて惹き入れられます。主人公は、作者の分身であるかのような、沢野崇という高い知性を持ったエリート公務員ですが、平凡なサラリーマンだった彼の弟の良介が、精神異常者のような何者かによって虐殺され、たまたまその直前に良介と会っていた彼自身が、容疑者として拘留されます。この事件によって、平和だった家族は引き裂かれ、鬱病だった父親は自殺します。</p>
<p>やがて、真犯人の篠原という男が、多くの人達を殺傷する自爆テロを行い、同時に良介の虐殺現場を撮影したビデオを警察に送り届けたので、これによって事件の全容が判明するのですが、沢野崇は、この篠原という男がビデオの中で語っていることに、一部頷かざるを得ず、「自分が良介殺害の共犯者だったのだと言われても、止むを得ないのかも知れない」と感じます。</p>
<p>篠原は、ビデオの中で、自分を「悪魔」と規定し、「『遺伝』と『環境』が人間を選り分ける『現代社会の幸福のファシズム』を、根底から破壊する」と、長口舌をふるうのですが、沢野崇は、その後の毎日の中で、「自分はそのような社会の上部構造の一員で、弟の良介のような『善良な被抑圧者』を、常に無意識のうちに生み出しているのかもしれない」という思いに至らざるを得ず、絶望の淵に立たされて、自らの命を絶つ結末となるわけです。</p>
<p>（作者は意図的にそのように誘導したのでしょうが、多くの読者が、恐らく最後まで、「実は、やはり沢野崇が真犯人で、彼は多重人格者だったのではないか」という疑いを捨てきれなかったのではないかと思います。そして、現実に、沢野崇自身も、拘留の最終段階では、「犯人は自分の分身だった」と感じ出し、もう少しでそのことを自白しそうになるのです。）</p>
<p>実際には、沢野崇と篠原との接点は、偶然の経緯から犠牲者となった弟の良介の存在でしかありませんでした。そして、この物語の怖さは、篠原が良介をターゲットにしたのは、彼の平凡な「ひとり言」のようなブログが、篠原の検索の網に引っかかり、その興味を掻き立てたからに過ぎなかったということです。</p>
<p>篠原は、同じようにネットを通して、自らを「孤独な殺人者」と夢想する少年Aを、協力者としてスカウトし、更に、ネットを含むあらゆるメディアを利用して、閉塞感にとらわれている多くの若者達に、「社会からの離脱」「人間であることからの離脱」を呼びかけ、熱烈な「共滅願望」を掻き立てて、同様の犯行を連鎖的に起こさせようとしました。</p>
<p>また、この小説の副主題は、「酒鬼薔薇聖斗」と名乗って殺傷事件を繰り返した、かつての「少年A」を模したかのような、新しい「少年A」、北崎友哉の物語なのですが、この少年は、インターネットのリテラシーが高く、この面では大人と何等変わることのない能力を、「当然のこと」として持っていました。</p>
<p>母親の彼に対する特異な愛情故に、大きなストレスを感じつつ育ってきたこの少年は、同年代の仲間達から疎外され、そのうちに、一方的な想いを寄せた同級の女生徒を、ボス的存在のクラスメートに奪われたことから、復讐の念に駆られて、妄想を膨らませていきます。</p>
<p>かつてと異なり、今はインターネットの世界が拡大していますから、彼の妄想は様々な形でネット上で具体化され、標的となった女生徒を家に引きこもらざるを得ない状況に追い込む一方、彼自身が、悪魔的なプランを進めていた篠原にスカウトされる結果を招きます。</p>
<p>このような粗筋を申し上げると、「これこそが『ネット社会の陰の部分』を浮き彫りにする物語である」かのように受け取られる方がいるかもしれませんが、この本はそんな感じのものではありません。</p>
<p>「ネット社会」は既に存在しているものであり、従って、その陰の部分も当然存在していることが前提です。あらためてそんなことに注意を喚起する必要はないのです。</p>
<p>「ネット社会」は最早「空気」のような存在として我々の周りを埋め尽くしています。好もうと好まなかろうと、実際にその中で我々は生きているのです。</p>
<p>一部の人達は居心地の悪さを感じるかもしれませんが、これからは、文学も、演劇や映画も、この「ネット社会」という道具立てと無縁では、次第に存在し得なくなっていくでしょう。</p>
<p>実は、私がこの本を読みながら一番感心したのは、ネット上やメディアで語られる、多くの人々の言葉の「自然さ」です。平野さんの書く「ネット語」は、まがうことなく、「ネット語」の現実そのものであり、「電車男」のような作られた物語の中の言葉よりずっと自然に響きます。「メディア語」も同じで、その現代的な「軽佻さ」が極めて自然です。</p>
<p>それだけでなく、この本の中では、子供達の会話、親子間の会話、親夫婦の会話、教師達の会話、刑事達の会話、恋人同士の会話、地下鉄を待っているサラリーマンの会話、居酒屋で合コンに興じている若者達の会話、等々、多くの会話の全てが、「世はすべてこともなし」といった感じで、この小説の背景としての「今の時代」を活写しています。</p>
<p>だからこそ、この本の核心となる、篠原の「激越で反社会的な言葉」や、作者の分身のような沢野崇の「苦悩に満ちた独白」が、より一層鮮烈に、読者の心に迫るのでしょう。</p>
<p>この小説で描かれているものは、その過激さにもかかわらず、我々の周りで、何時どんな形で起こってもおかしくないことのように思えます。</p>
<p>このような社会の中で、我々はこれからどう生きていけばよいのでしょうか？　勿論、このような問に対する答など、ある訳もありません。まさしくこの小説の中で語られているように、現代においては、「悪魔」は存在し得ても、多くの人々にとって、「神」は恐らくは既に死んでいるのでしょうから...。</p>
<p>しかし、我々は、今、現実にこのような社会の中で生きているのです。だからこそ、今この時に、このような小説が書かれなければならなかったのでしょう。</p>
<p>最後に、平野さんには叱られるかもしれませんが、余計なことを一言、二言。</p>
<p>沢野崇が、友人との会話の中で語る「近代思想史についての薀蓄」や、「政治問題についての見解」が、私には若干饒舌に過ぎるように思えました。</p>
<p>勿論、ストーリーの背景として、沢野崇という人物の知性と見識のレベルの高さを示しておく必要はあったのでしょうが、「ここまで書かなくても」という気はしました。</p>
<p>また、沢野崇が自らの口で語る「この事件が示した本質的な問題」の数々も、小説全体の構成から見ると、若干違和感のある箇所がいくつかあるように感じられました。つまり、「小説」と「評論」が混在しているような違和感です。</p>
<p>かつて、若き日のアルベール・カミュは、主人公ムルソーの心象を淡々と語る小説「異邦人」を書き、同時にその哲学的背景を論理的に語る「シジフォスの神話」を書きました。本来「小説」というものはこうあるべきではないかと考えるのは、私だけでしょうか？</p>
<p>それから、これは恐らくプロの作家が背負う「業」なのかもしれませんが、これだけの長編の中で、「鋭敏な神経が剥き出したような」微妙な描写が次々に続くのは、私のような「普通の（文学サークルの外にいる）読者」には、若干重荷であったことも、正直に告白しなければなりません。</p>
<p>例えば、出先からアパートに帰る地下鉄の中で、沢野崇は、「周囲を満たす乗客の群れに曖昧な視線をめぐらせる」のですが、その時、「風景が、酩酊に浸されたように、人や物の縁を脆くしている」ように感じ、「足許からは、軋むような車輪の音が立ち昇って、切れた糸くずのように、いろいろに散らばった車中の会話を、暗い悲鳴のような響きで攫っていく」のです。</p>
<p>また、殺された良介の遺骸確認の為に警察署に出向いた彼の母親について語る場面では、「電話の振動がほどなく止んだ」後に、「静寂が再び彼女に迫り寄って、その鎮めようもない喧騒で意識の肌を掻き毟る」のです。</p>
<p>うーん。書きたいことは色々あっても、プロの作家になるのはなかなか大変ですね。</p>]]></description>
            <link>http://tedm.sbibusiness.com/2008/08/post-16.html</link>
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            <pubDate>Mon, 18 Aug 2008 16:51:18 +0900</pubDate>
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            <title>電波埋蔵金を求めて</title>
            <description><![CDATA[<p>「ここ何年かのうちに情報通信サービスは飛躍的な高度化を遂げるだろう」ということが多くの人達に信じられていますが、それには、「高速データ通信ネットワークが急速に整備されるだろう」という見通しが前提となっています。<br />通信ネットワークは有線方式によるものと無線方式によるものとに分かれますが、有線技術については、最先端の光通信システムは既に人間が使いこなせる限界点に近い高速サービスの実現を約束しており、問題は、今や、「光ファイバーを何時までにどこまで張り巡らせることが出来るか」と、「コスト」に集約されています。</p>
<p>しかし、無線技術の方は、まだまだ多くの複雑な課題を抱えています。<br />無線技術は、電磁波という物理現象を利用して信号を伝播させる技術ですが、電磁波の持つ物理的特性から、実際に通信目的で利用できる周波数は極めて限られています。また、これも電磁波というものの持つ物理的特性から、一定の周波数が伝播できる情報量（一秒当たりの伝送ビット数）には限界があることも、シャノンの法則としてよく知られています。<br />それ故に、無線技術は常に「電波の希少性」という問題との戦いであり、また、有線方式のように多量の情報量を野放図に処理するということは何れにせよ不可能ですから、常に爪に火をともすようにして、その利用方法を工夫していかなければなりません。</p>
<p>有線方式の場合は、仮にある人がある相手と、一本の銅線（または光ファイバー）で排他的につながれたとしたら、その線の中では何が起こっていても構わない訳ですし、LANのように一本の路線を複数の利用者が共用する場合でも、そもそもその伝送能力が半端ではないので、比較的おおらかに全てを考えることが出来ます。<br />しかし、無線方式の場合は、元々一括りにされた一定の周波数帯が伝送できる情報量が限られている上に、無線が飛び交っている空間の中に多くの人がいるのが普通ですから、みんなが勝手に電波を出せば全てが無茶苦茶になってしまいます。それ故、無線方式の通信というものは、一時的には国家が管理し、更には、国際的な協定によって、世界レベルでも管理されなければならない訳です。<br />日本でこの管理の責任を負っているのは、かつての郵政省、現在の総務省ですが、その責任は実に重大です。大きな利用価値をもった周波数というものは、一つの「資産」であり、この「資産」は、国（主権在民の体制化では国民）に帰属します。総務省は、国民の付託を受けて、この管理責任を負っている訳です。</p>
<p>かつては、電波の希少性ということについても、それ程切迫感があったわけではありませんから、その利用免許はかなりおおらかに与えられてきた観があります。また、「ブロードバンド」のニーズということも殆ど意識されていなかった為、周波数をかなり細かくぶつ切りにして免許が与えられています。このような状態が永久にそのままで良いと考える人はあまりいないでしょうから、早晩何らかの大手術が行われなければならないのは確かでしょうが、その前段階として、現在この「国民の希少な共有資産」である電波が現実にどのように利用されているかについて、先ずは国民が等しく情報を共有することが必要であると思います。</p>
<p>現在現実に電波がどのように使われているかについては、私の知る限りでは、まとまって公表されている資料はありません。電波を扱う人達の間でバイブルになっている分厚い青表紙の出版物があるのですが、これは総務省から出されたものではなく、民間の有志グループが推測を交えてまとめた非公式な資料だときいています。</p>
<p>私は３年前に、アメリカで生まれたMediaFLOというモバイル放送技術を日本に導入することが出来ないかと考え、総務省に相談にいったところ、「周波数がないのでどうにもならない」と言われました。しかし、そう言われても簡単には諦められず、それから１－２年の間は、前述の青表紙の資料も穴のあくほど読んで、色々な方策を考えてきたのですが、現時点ではほぼ諦めの心境で、「結局は2011年に予定されているアナログ停波まで待つしかないのだろうなあ」と考えるに至っています。<br />そうなると、MediaLFOの先進性も色褪せてしまい、最早あまり意欲は掻き立てられません。<br />モバイル放送サービスは、携帯端末からは何も電波を発信するものではなく、一方送信側の周波数を変えること自体は比較的簡単ですから、「あらかじめ複数の周波数に対応するシステムを考えておき、その時に空いている周波数を漸次使いまわしていけばよいのではないか？　それなら、現在と将来の周波数の使われ方をしらみつぶしに調べ上げていけば、どこかに期間限定で使える周波数は必ずあるはずだ」と考えたことが、今にして思えばやはり甘かったと言わざるを得ません。</p>
<p>しかし、この経験から知り得たことは、現実に周波数は驚くほど多岐多様に使われていること、その使われ方の現状は、技術面から言っても、割り当てられ方から言っても、決して効率的とは言えないこと、全国的にみれば、ある地域にだけ使われていて、他の地域では全く使われていないケースも多々あること、等々でした。<br />と言うことは、仮に今、全てを白地に戻すことが出来、最新の技術をそこに導入することが出来るとすれば、周波数の利用効率は飛躍的に上がり、もしかしたら、「周波数は日本中でジャブジャブに余っている」という状況になることさえあり得ると思うのです。</p>
<p>周波数は本当に足りないのでしょうか？　それとも、実は余っているのでしょうか？　<br />現状は勿論全然足りません。しかし、現状を徹底的に洗い出し、総務省が強力なリーダーシップを発揮してその整理整頓をやれば、相当余ってくる筈です。<br />そして、この余ったものを、各種の携帯端末向けのサービスの飛躍的向上の為に使えば、「まだ一寸足りないが、まあまあかなァ」という程度にはなるでしょう。こういう状態になれば、固定環境における光通信網の拡充と相まって、日本は間違いなく世界有数の情報通信大国になれます。逆に今一歩を踏み込まなければ、日本は確実に遅れをとることになると思います。</p>
<p>周波数問題については、最早抽象論を闘わしている時期ではありません。　また、既得権者との個々の交渉で一つ一つ解決していこうというのでは、百年河清を待つことになってしまうでしょう。<br />先ずは徹底的な調査で現状を白日の下にさらした上で、現状の効率性を一つ一つ検証してランクをつけた上、合理化案を出し、その上で、国家的な観点からのグランドデザインを描くべきです。2011年7月のアナログ停波の約束期限まで3年を切った今こそ、この為の議論が開始されるべきです。</p>
<p>現状を変えようとすれば、必ず抵抗が出ます。誰もが、「これは絶対に必要で、代替手段はない」と言い張るでしょう。<br />それでは、仮に今電波を使っている人達の全てに対して、「携帯通信事業者が支払っているのと同じだけの電波料を科すことになるかもしれないが、それでもよいか」ときいてみてはどうでしょうか？　全ての人が「とんでもない」と顔色を変え、「その仕事が如何に国民の生活にとって必要不可欠か」を述べ立てることでしょう。<br />これは良い出発点だと思います。彼等の申し立てる論点を一つ一つ検証し、「本当にそうなのか？」「何故代替案では駄目なのか？」を問うていくことこそが、合理化を行うための唯一の方策だと思うからです。<br />私の見たところ、これをやっていけば、いろいろなところからどんどん「電波埋蔵金」が出てくると思います。</p>
<p>電波問題を検証する時に、避けて通れないのが「地方」の問題です。「地方」の問題は直接「政治」と絡んでくるので、抵抗も大きく、誰も手をつけたくない問題ですが、このまま放置していれば、やがては経済的に破綻してしまうことは明らか故、何時までも現状維持というわけに行かないでしょう。<br />私も娘が長野県の人に嫁ぎ、孫が二人長野県人として成長しているので、「地方」の問題には無関心でいられません。ここで、私は、最近一つ不思議なことを発見しました。「地方」の人達が等しく切望しているのは、常に「中央」との格差の是正なのですが、これが放送などの話になると、突然「地方の独自性」が声高に論じられるようになるということです。<br />多くの人達は「東京と同じTVが見られる」ということになれば大満足で、「これに各地域の独自番組が若干付け加えられていればなお良い」ということだと思うのですが、公になされている議論は相当違っています。<br />皮肉なことに、保守的な通信事業者や放送事業者からは警戒され嫌われているインターネットの方が、地方の人達にはずっと優しいのです。インターネットの世界は、本質的に場所を（国さえもを）意識させない世界ですから、地方格差というものがもともとありません。問題は、ケーブルTVがあるとかないとか、光ファイバーやADSLが浸透しているとかいないとかいう「ハードの問題」だけで、ソフトやコンテンツには全く格差はないのです。<br />地方に住んでいる一般庶民が、地方におけるIT環境のあるべき姿について、今こそ声を上げるべきです。</p>
<p>電波の問題を論じる時に何故「地方の問題」が大切かというと、それが電波の有効活用に大きな影響を与えるからです。<br />これまでは、放送事業というものは地域的に切り分けられていて、隣接する地域の電波とその地域の電波が混信しないように、多数の周波数が複雑に入り組んで使われていました。これでは周波数がいくらあっても足りない理屈です。デジタル時代になると、状況は少しは良くなりますが、この原則が適用される限りは、基本的な問題は残ります。<br />ところが、衛星放送のように、地上波でも「全国的に同じ番組をどの地域でも一様に見られる」ことを原則とすれば、状況は一変し、周波数がどんどん余ってくるという状況が生まれます。<br />勿論、各地域で、一定量の独立放送（広告も地域限定とする）を確保することも必要でしょうが、これについては、かつての携帯電話の基地局がそうだったように、送信局をあらかじめ「六角形の蜂の巣状に」配置しておき、三通りの周波数を全国放送とは別に用意しておけば、どんな地域でも隣接地域に迷惑を与えずに、これを行うことが出来るでしょう。</p>
<p>異なった地域に、それぞれの送信機から全く同じ情報（番組）を流すやり方を、SFN（Single Frequency Network）と呼びます。これを実現するためには、特有の技術が必要となりますが、そのような技術は既に存在していますし、格段に難しいものであるわけではありません。<br />現在のように、送信局と送信局を小さな中継局で数珠繋ぎにしていくというような曲芸的なことをしていては、マルチパスが許容範囲を超えるというような問題も出てくるかもしれませんが、送信局は光ファイバーでつないでいけばよいし、通信衛星を使って日本中の送信局に一気に配信するという手もあります。</p>
<p>私は最近ある研究会の報告書に「SFNには技術的な問題があるので、MFN（Multi Frequency Network）の採用が望ましい」という趣旨の文章が入っているのを知り、肝をつぶすほど驚きました。こんなことが公文書に書かれるということ自体、「日本が電波の有効利用については相当な後進国である」ことを世界に対して宣言しているに等しく、とても恥ずかしいことだからです。<br />むしろ「SFNを導入すると効率が良くなって電波が余ってしまい、そうなると新規参入者が増えて寡占体制が保てなくなってしまうので困る」と書いてくれた方が、まだ分かりやすくてよいのにというのが、私の偽らざる心境でした。</p>
<p>地上波放送は、これまで、VHF帯で70MHz、UHF帯で300MHz、合計370MHzを使ってきましたが、「デジタル化によってこれを圧縮し、VHF帯は他の目的（モバイル・マルチメディア放送、デジタルラジオ、及び警察・消防用の通信）に供する一方、UHF帯からも60MHzを携帯通信などに拠出して、UHF帯240MHzだけで全てをまかなう」ということが既に決まっています。370MHzが240MHzに減るのですから、これは一見すばらしい合理化であるように見えるのですが、その間の技術的進歩に比べると、「まだまだのレベル」です。</p>
<p>240MHzといえば、もし全面的にSFNを採用し、ぎりぎりまで詰め込めば、ハイビジョン換算で80チャンネルがまかなえる帯域幅です。</p>
<p>そもそも「地上波放送」というものは、恐竜の首の部分（「マスメディア」の対象とされるべき部分）を対象とした「基本的な公共放送」で、恐竜の胴体から長い尻尾の部分は、「ケーブルTVやIPTV、更には衛星放送（日本では、BS放送で12チャンネル、CS放送では100チャンネルを超えるサービスが既に全国的に提供されている）でまかなわれるべきもの」というのが、世界の常識になっていることを考えれば、「全国規模で提供される地上波放送」は15チャンネルでも多いぐらいであり、80チャンネルといえば、まさに気の遠くなるような数字です。</p>
<p>そうなると、前述の「各地域での独立放送」の為に、ハイビジョン換算で２‐３チャンネル（実際にはハイビジョンは必要ないと思うので、6－９チャンネル、即ち、一地域あたり２－３チャンネルになる）程度を別途割り当てた上、現在の携帯端末用のワンセグ放送を100チャンネル程度にまで拡大、更に、「ワンセグの延長線上にあるマルチメディア放送」とも言えるISDB-Tｍｍと呼ばれる方式もここに導入してみても、まだまだ１/３も使えきれない計算になります。</p>
<p>もう一つの大きな「電波埋蔵金」の可能性は、現在、「FPU」と、スタジオなどで使う「アナログのラジオマイク」で使われている「770MHz－806MHz」の36MHzに及ぶ帯域です。<br />「FPU」とは、TV各社が取材映像の伝送用に使っているアナログ回線のことですが、この目的の為には、他の帯域で膨大な量の周波数が別途割り当てられており、全て通信衛星を使って処理されております。（周波数割り当ては、5GHzから13GHzに及ぶ帯域で、B、C、D、E、Fと名付けられたバンドが、それぞれの帯域幅で100-300MHz程度あり、合計すれば、総帯域幅は1,000MHzを超えます。)　<br />従って、TV各社が、取材映像の伝送の為に実際にこの770－806MHzの帯域を使うのは、衛星が使いにくいとされている「マラソン中継などの例外的なケース」に限られているようです。<br />現実に、今年の5月を例にとって記録を調べてみると、「首都圏でこれが使われたのは1ヶ月にわずか9回だけ」という記録が残っていました。</p>
<p>電波が「希少な資源」であるということには、どうも誰も異存はないようなので、もしそうであるなら、「埋蔵金」探しは、国家レベルで本気でやらなければなりません。<br />もし総務省がすぐにはやってくれないとしたら、日本には「請願」という制度があるので、国民の誰でもが、この権利を行使して、総務省に具体的な調査を「請願」することが出来ます。<br />先ずは「埋蔵金」を洗い出し、それからじっくりとその有効利用を考えるべきです。<br />何と言っても、電波は、国民一人一人の、大事な、大事な資産なのですから･･･。</p>]]></description>
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            <pubDate>Fri, 08 Aug 2008 18:15:36 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>閑話休題ー「勝ち組」と「負け組」</title>
            <description><![CDATA[<p>近頃は色々な「流行り言葉」があり、それなりに面白いのですが、私にとっては「勝ち組」「負け組」という言葉は不愉快極まりないものです。私が不愉快なだけなら、まあどうでもよいのですが、社会的にも悪い影響があるので、あまり使ってほしくない言葉であることは間違いありません。</p>
<p>最大の問題は、自分は「勝ち組」であると意識している人は元々少ないであろう上に、そもそも軽薄な人が多いはずなので、すぐに「負け組」に転落する可能性が多い一方、自分を「負け組」と意識する人は元々数が多いであろう上に、そんな人はほぼ永久に這い上がれそうにないことです。つまり、残念なことに、「勝ち」は一時的なのに、「負け」は半永久的なのです。となると、エントロピーの法則のように、世の中は段々と「負け組」で満ち溢れていくしかなくなります。この人達の何人かは「絶望と怒り」が抑えきれなくなり、更にその中の何人かは、ナイフでやたらに人を刺したくなるでしょう。</p>
<p>秋葉原で突然誰かに刺されるのも困りますが、それ以上に困るのは、「こんなことが起こるのは、市場原理主義によって格差社会が生じた故だから、昔のような、『ナアナアの社会』に戻すべきだ」ということを、一部の政治家や学者が大真面目に議論し始めたことです。この人達が持っている力は、ナイフどころの比ではありませんから、これは心底ゾッとするような流れです。失われた十年をまたこれから繰り返したら、もう取り返しのつかないところまで行ってしまいます。</p>
<p>そもそも、世に言う「勝ち組」とはどんな人達でしょうか？　昔のように「たまたま勉強が良く出来て東大に入り、高級官僚の道を歩んでいる人」とか、「大会社に入り、良く働き、人間関係もまあまあうまくやって、役員まで上りつめた人」とかを意味するのでもなさそうで、「IT産業か何かでうまく当て、IPOで自分でも驚くような金が入った人」というようなイメージのようです。この人達は「かなり頭が切れ、根性があり、何よりも運が良かった人」である筈ですが、その中で一流といえる人達はかなり少数で、一時の成功で世の中を甘く見て、やがて転落の罠にはまっていく人達が大多数でしょう。</p>
<p>一方「負け組」はといえば、「まあ何とかなるさ」と軽く考えてフリーター稼業でその日その日を送っているうちに、気がついてみると、自分が「下請け企業の臨時雇い」から抜け出せない立場にはまり込んでしまっていたような人が、典型的な例になるでしょう。このような人達は、何時までたっても収入は一向に増えない上に、少し仕事がうまくいかなくなってくると簡単にクビになります。もし職種がソフトウェア等だったら、年をとると、もう声もかからなくなってしまいます。うーん、これはやっぱり辛いですね。「蟹工船」を読みたくなる気持も分からなくはありません。</p>
<p>このように考えていくと、この両者を分けたのは、要するに、「その人達がどういう人生を求めたのか」によるのです。別に競争に勝ったとか負けたとかによるものではないし、まして謂わんや、政治や社会構造に関係するものでもありません。ある環境下である種の選択をすれば、運不運である程度の差は出るとしても、まあ大体は同じような結果が出ます。これはどんな社会であろうと同じことですが、市場原理が働く「普通の資本主義」体制下では、「選択の幅」も「運不運の幅」も大きくなるので、「結果の幅」も大きくなるのは当然のことです。</p>
<p>それでは、どうすれば社会全体の不幸度が改善され、ナイフを振りまわす人が出てくる確率が低くなるのでしょうか？　私は、全ての人が「価値観の多様化」を認め、「自分の選択」に誇りを持つことによって、状況は少しは良くなるだろうと思っています。</p>
<p>「勝ち組」とか「負け組」とか言う言葉は、価値を「勝ち」と「負け」の二つに単純化しているわけで、「価値観の多様化」の対極にあるものです。本当は勝ったわけでもない人を「勝ち組」と呼び、決して負けたわけでもない人を「負け組」と呼ぶのは、犯罪といってもよいぐらいだと私は思っています。</p>
<p>私も、実業の世界の最先端にいた時には、何度か「負ける」ことの恐怖を感じました。自分の責任ではじめた事業が立ち行かなくなり、「あ、俺は負けたんだ」と思ったこともあります。もう少し年がいって、安穏な大企業での生活を自ら捨てた時には、最悪のケースの自分の生活を想定してみました。経済的には何とか生きていく位は出来そうな計算になりましたが、何を楽しみにして、或いは何を誇りにして、六十歳をこえた後の人生を生きていくかということを考えると、やはり冷たい汗が出てきました。</p>
<p>しかし、「その時はその時で、全く新しい価値観で生きればよいのだ」と考えてみると、少し勇気が湧いてきたことを、今にして思い出します。</p>
<p>現在はウェブ2.0の世界が広がりつつありますから、状況ははるかによいように思えます。現実の世界では落ちぶれても、ウェブ上の特殊なコミュニティーやバーチャルの世界で独自の世界を築けますから、やり方次第で、それなりの楽しみと誇りは得られるでしょう。</p>
<p>「金が全て」であり、「金があれば勝ち、金がなければ負け」と考えなければならない社会は遠のきつつあるのに、そう考えて自縄自縛に陥っている人達がいるとすれば、自ら不幸を呼び込んでいるとしか言いようがありません。</p>
<p>尤も、現実の世界では、大多数の人達は自分達を別に「勝ち組」とも「負け組」とも意識していないでしょう。あくなき向上心を持って、或いは若干の淡い期待を持って、日夜戦っている人達もいるでしょうし、「まあ、こんなもんだろう」と半ば諦めの心境の人達もいるでしょうが、みんなそれなりに精一杯生きているのです。わざわざ「勝ち組」とか「負け組」とか言う言葉を作って、面白おかしく人を区別するのは止めた方がよいと思います。</p>]]></description>
            <link>http://tedm.sbibusiness.com/2008/08/post-14.html</link>
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            <pubDate>Wed, 06 Aug 2008 12:33:56 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>階層分離による公正競争の実現</title>
            <description><![CDATA[<p>通信事業は、時代の先端を行くハイテク産業であるという側面と、不動産業や建設業に近い側面を併せ持っています。光ファイバーを敷こうとすれば、管路や電柱を確保せねばならず、携帯電話のカバレッジを増やそうと思えば、アンテナを取り付ける鉄塔を建てる場所を先ず確保しなければなりません。こういう仕事になると、以前にも申し上げましたように、明治以来「官営事業」として通信ネットワークを施設してきたNTTが圧倒的に有利だし、新規事業者や適正規模に達する以前の事業者には、いくらやりたくても「経済合理性からいって全く無理」ということが、数多く出てきます。</p>
<p>これも先のブログにも書いたことですが、出来るだけ多くの人達が競争に参入することは勿論望ましいことですが、最終的にユーザーの負担を押し上げる結果になるような「無駄な競争」はするべきではありません。例えば、道路を何度も掘り返して、重複して光ファイバーを敷設したり、風光明媚な山の中に無粋な携帯通信用のアンテナを何本も重複して立てたりするようなことは、この「無駄な競争」に該当するでしょう。通信事業者間の競争は、先端技術や画期的なサービスの導入における競争であるべきで、不動産取得や建設工事の競争ではあるべきではありません。</p>
<p>総務省は、情報通信産業のあるべき姿として、階層（レイヤー）ごとの水平分離を提言しています。即ち、情報通信サービスを提供するために必要な設備や技術を、ユーザー端末、ネットワーク、サービス・プラットフォーム、コンテンツの各階層に分けて、それぞれの境界線を分けるインターフェースをオープンにし、各階層ごとのプレーヤーがお互いに自由に結合できるようにしようというものです。そうすれば、「一つの階層で寡占的な力を持つプレーヤーが、他の階層にもその影響力を行使し、その階層だけの競争なら十分戦っていける他のプレーヤーを排除する」といったようなことを防ぐことが出来ます。結果として、より多くのプレーヤーの参画でユーザーの選択肢は増え、能力あるプレーヤーが厳しい競争下でお互いに切磋琢磨することによって、サービスの質も飛躍的に向上させることが出来ます。</p>
<p>私は、後述する「SIMロック解除」の問題を除いては、この総務省の提言に全面的に賛同する立場でありますが、ネットワークの階層を更に二分し、「不動産取得や建設工事に多くを依存する0種的な階層」と、「プラットフォームレイヤーと深く結びつくネットワーク技術の階層」を分けるべきと考えています。「一つの階層で寡占的な力を持つプレーヤーに、他の階層における競争を不公平なものにさせてはならない（ボトルネック独占の排除）」というのが、上述の総務省の提言の基本理念であるなら、最も寡占的な体制に陥りやすい「0種的な分野」を分離しない限り、新しい体制も結局は内部矛盾を抱えたものになってしまうと考えるからです。</p>
<p>今回は、有線（光ファイバー）分野と、無線（携帯通信）の二つの分野で、それぞれ分かりやすい例を上げて、このことを更に説明させて頂きたいと思います。</p>
<p>ご承知のように、ADSLのビジネスにおいては、ソフトバンクが導入した破壊的とも言える低価格政策によって、日本のインターネットサービスは一気に世界の最先端を行くものになりました。残念ながら、地上波TVのコンテンツのIP再送信や著作権処理に関連する諸制度の整備の遅れにより、日本における「ブロードバンドサービス」の普及は未だ十分ではありませんが、総じて良い方向に進みつつあるように思えていたのです。これは基本的にNTTの寡占下にある各家庭へのアクセス回線（銅線）が、公正な条件で各ADSL事業者に貸し出されていたからです。</p>
<p>ところが、ここで残念なことが起こりました。日本のお家芸とも言える光ファイバーがいよいよ銅線に置き換わっていこうとしているこの時点で、NTTは貸し出しルールを抜本的に変え、NTTの光アクセス回線を借りてNTT以外の事業者がブロードバンドサービスを行うことを、経済的にほぼ不可能な状態にしてしまったのです。具体的にいうと、全ての事業者は加入者回線8本をまとめ借りしない限り、NTTから光回線を借りることが出来なくなってしまったのです。NTTの場合は、同じ会社の中に光回線を卸売りする部門と、最終ユーザーに小売りする分野を並存させているので、前者が稼ぎ出す大きな利益で後者の損失を埋めること（クロスサブシディー）も出来ますが、他の事業者にはそんなことは出来ません。8本まとめて借りて、なお利益が出せるようになるまでには長い歳月を要し、その間は膨大な赤字に耐えていかねばならないことになりますが、それはほぼ不可能なことが目に見えており、結果として、ブロードバンドサービスにおける公正競争は今や死に絶えようとしています。今、何らかの抜本的な手が打たれない限りは、これまでの全ての努力は元の木阿弥となり、業界は再びNTTの独占へと回帰してしまうことになるでしょう。</p>
<p>「光ファイバーの施設は何もNTTの独占ではない。東京電力のネットワークを買い取り、幾つかの有力なケーブルＴＶ施設も傘下に収めつつあるKDDIは、強力な対抗勢力の核になりうるし、これに他の電力会社系のサービスや他のADSL事業者が合流して大同団結すれば、二大ネットワークが対峙する健全な競争環境が実現できるではないか」という人もいるかもしれませんが、これはビジネスの現実を理解しない人達の「机上の空論」であるような気がします。現実のビジネスにおいては、コスト競争力が冷静に計算されますし、誰もが勝ち馬に乗ろうとするので、流れは一気に決まってしまいます。</p>
<p>ここからは、ソフトバンクモバイルの現役の副社長としての私ではなく、「日本の情報通信産業の将来を憂う一市民」としての私の「個人的な意見」として受け止めて頂きたいのですが、私は「NTTの再編は必ず行われるべきであり、それは『0種的な分野の分離』を核にして行われるべきである」という強い意見の持主です。NTTの東と西の分離は、既にその使命（異なった経営体制による経営結果の差異の検証など）を終えたともいえるので、この両者の合体は直ぐにでもあって然るべきですし、私はこれにNTTコミュニケーションやNTTドコモが合流することさえも、「将来はあってもよいかな」と考えている程ですが、「0種的な分野（物理的なアクセスライン施設の建設、保有、メンテナンス）の分離」は、「ボトルネック独占による他の階層での競争阻害」を防ぐ為に、どうしてもやらなければならないことであると考えています。</p>
<p>私の見るところ、これを実現する為には、総務省に強力な牽引車となってもらう以外にないと思います。或いは、その役割を果たすのは、公正取引委員会なのかもしれないのですが、NTT問題は、出来れば独禁法の観点からではなく、前向きの産業立国論の立場から論じられるべきと思うので、ここはやはり総務省に頑張って貰う必要があります。</p>
<p>かつてNTTの分割議論がホットであった時には、「攻める郵政省」と「守るNTT」が激突して火花を散らしました。本来「攻める側」の先頭に立たねばならなかったNCC（新通信事業者）の力が未だに弱かったからですが、残念ながらこの状況は今もあまり変わりません。つまるところ、現在の総務省にかつてのような「闘う気概」があるかどうかに、全てがかかっているような気がしてならないのです。</p>
<p>今後の通信の基本は、「有線でつなげるところは全て光ファイバーでつなぎ、どうしてもつなげないところは無線でつなぐ」ということであるべきですが、国土が狭く、人口の大部分が大都市と海岸線に集中している日本では、前者の比重が相当高くなるように思われます。現実にも、日本の光ファイバーの敷設密度は世界のどの国に比べても圧倒的に高く、且つ、これをベースとして、NTTが発表しているNGNのような高度なネットワークの構築も進展しつつあります。つまり、日本は、その地理的特質を十分に生かし、「光立国政策」と名付けてもよいような、「最先端の情報通信網を核とした国家政策」が描ける立場にあるのです。</p>
<p>然るに、実際に起こっていることはどうでしょうか？　光通信に関連するNTTの自己防衛的な営業政策の為に、先ず、光ファイバー網の地方への浸透が疑問視されはじめており、次に、公正競争体制が壊滅して昔ながらの寡占体制が復活するのではないかという危惧が出てきております。後者については、既に説明しましたので重複を避けますが、前者については少し説明する必要があるでしょう。</p>
<p>NTTは、最近になって、「当初発表したような急速な光通信網の拡大は経営を圧迫することになるので不可能」ということを言い出しています。NTTといえども民間の一営利事業者にすぎないわけですから、このこと自体は十分に理解できます。しかし、一方では、「少しぐらい遅らせても、どうせ競争会社は出てこないのだから･･･」という安心感がその背景にあるとすれば、少し問題です。また、「もし多くの事業者が同じ施設に相乗りするのであれば、その分だけ経済性が良くなり、もう少し早く地方展開が出来る」というのが真実であるのなら、NTTがこの可能性を真剣に検討しないのは、何とも残念と言わざるを得ません。</p>
<p>解決策は何か？　それはやはり、「0種的分野を分離し、この分野では、純粋な自由経済の原則に全てを委ねるより、国策的、計画経済的な考え方を一部導入する」という、「抜本的な通信政策の転換」ではないかと思います。即ち、NTT本体から分離された0種会社は、民間企業として存続するものの、国民のための基本インフラを提供する一種の「国策会社」として、徹底的なコストの透明性を実現し、各通信事業者に公平にサービスを提供するべきです。経営は衆人環視の下で行われる一方、国から、優遇税制の適用を含め、様々な財務支援を受けるべきです。</p>
<p>次に無線分野ですが、この分野での合理化のポイントは、「地方における鉄塔の共有化、或いは相互ローミング」と、「ビル内や地下街における基地局設置スペースの共有化」であると思います。この両者とも、「その場所と各事業者の上位施設を結ぶ光ファイバーの共用」を含みます。</p>
<p>このことによって実現できるメリットは、</p>
<p>１）地方における寡占化の防止</p>
<p>２）トータルコストの低減</p>
<p>３）美観の維持</p>
<p>の三点に集約されますが、１）と２）は、「デジタルデバイドの解消」にもつながる「地方格差の是正」に貢献します。</p>
<p>今や携帯電話は日本全国をくまなくカバーするレベルへと近付きつつありますが、それでも、「流石のドコモでさえもサービス出来ていない村落や山中の一軒家」が、なお多数残されています。「TVのない村には嫁が来ない」ということは長い間言われてきましたが、今は、「携帯電話がつながらない村には嫁が来ない」時代です。光ファイバーの全国展開にはまだ少し時間がかかってもやむを得ませんが、携帯電話の方はもう「待ったなし」です。</p>
<p>最近、或る県の知事さんがわざわざ我社にお越し下さり、「ソフトバンクの携帯サービスのカバレッジを県内でもっと拡大してほしい」という要請をお受けしました。これに対して、私からは下記のように逆にお願いを致しました。</p>
<p>「我社としても、帰省者や旅行者から寄せられる不満を解消する為にも、もっと地方でのカバレッジを増やしたいのは山々です。しかし規模のメリットをもたない我々には、やりたくてもそれが出来ません。むしろ各県の知事さん達から、『トータル建設コストが下がって、過疎地にもカバレッジが自然と広がっていくような方策』を、総務省に対して提言して頂けませんか？」</p>
<p>この方策は、具体的には、一定地域における「ローミングの義務化」と「鉄塔の共有化」です。</p>
<p>こういう方策がとられないと、現時点でなお50%を超える市場シェアを持っているドコモのみが「基地局建設を可能にする経済合理性」を持ち、この規模に達しない事業者は断念せざるを得ない地域が多くなる為、結果として、これらの地域ではドコモが完全に独占状態になります。そうなると、この地域よりもっと奥に入った地域では、この差が更に大きくなり、この流れがどんどんドミノ的に拡大していきます。</p>
<p>逆に、ドコモがチャンピオンとなって他の事業者の端末のローミングを受け入れた場合は、より多くのユーザーが救済される一方で、ドコモには他の事業者からの通信収入が入り、経済合理性がより高まり、より多くの地域に基地局を建設することが出来るようになります。</p>
<p>もしローミングを受け入れることを前提としても、なお経済合理性が存在しない場合には、「ドコモのみに施設費用の負担を求めるのではなく、各事業者が応分の金銭的負担をする」、或いは、「各事業者が責任地域を分け合って基地局建設を分担し、相互にローミングを行う」等の方策も考えればよいと思います。勿論、総務省が徴収している電波料の一部が、そのための補助金として使われることは、当然あってしかるべきと思います。</p>
<p>韓国では、景勝地の美観維持の為の鉄塔共有の義務化は既に行われていますし、その他の面でも、先行したSKテレコムと新規参入者の格差を少しでも平準化する為に、幾つかの非対称規制が意図的に導入されています。(結果として、このような国の施策の為に、国内でのビジネスの拡大がもはや期待できないと判断したSKテレコムは、積極的に海外進出を図っています。)</p>
<p>「日本での公正競争促進策が韓国より遅れていてもよい」というわけはないと思いますので、総務省の積極的な取り組みが大いに期待されているわけです。</p>
<p>最後に、前述したように、「SIMロックの解除」の問題について、一言付け加えさせて下さい。</p>
<p>GSMの為に開発されたSIMカード方式は、もともと、端末の販売と通信回線の販売を分離させるためのものでした。「ユーザーが好きな端末と各国の通信サービスを自由に組み合わせることが出来る」ということは、日常頻繁に国境を越える必要があるヨーロッパでは、確かに誰にとっても好都合に思えたのです。</p>
<p>尤も、これを「物理的なカードの差し替え」で行うというのは、如何にも古めかしい発想で、本来なら通信回線を使ったソフトウェアの入れ替えだけでやるべきなのですが、GSMが開発された当時の技術水準では、やむをえなかったのかも知れません。</p>
<p>ところが、「通信ネットワーク」と「端末」の二つのファクターに加えて、最近は「各種のデータサービス」という第三のファクターが出てきたため、話がややこしくなりました。日本では伝統的に通信事業者の力が強く、通信事業者が三つのファクターを統合する中核として機能してきましたが、欧米では、データサービスのパッケージ化を巡って、ノキアやアップルのような端末メーカーと通信事業者とのヘゲモニー争いが激化しつつあります（現状では前者の方が優勢のようです。)</p>
<p>「SIMカードにロックをかける」ということは、「通信事業者が自社のネットワークサービスと端末を一体不可分のものにする」ということを意味し、ノキアなどの支配力に対抗して、自らの力で「新しい多様なサービスを実現する、新しい多様な端末」の販売を促進したい欧米の通信事業者は、最近になってこれを積極的に導入しようとしているのが現状なので、日本で総務省が逆の動きを考えているのは、やや奇異に感じられます。確かに、「SIMロック」は、一面で「ユーザーの自由な選択」を阻害することのようにも見えるので、総務省が否定的なのもそれ故でしょうが、この問題はもう少し慎重に考える必要があると思います。</p>
<p>ソフトバンクは、業界に先駆けて、これまでの日本の伝統的な「端末販売奨励金制度」にメスを入れ、ビジネスモデルを一新しました。これまでのやり方は、「通信コストと端末コストの区分を曖昧にする一方、長期間端末を保有するユーザーに不公平な負担を強いる」という問題点があったので、これを是正すべきと考えたからです。</p>
<p>しかし、平均4万円とも5万円とも言われる日本の典型的な高機能端末のコストを、きっちりユーザーから頂こうとすれば、ユーザーの負担が高くなりすぎます。従ってソフトバンクは、ホワイトプランなどで、24ヶ月の割賦販売方式を導入、更に、毎月のユーザーの負担も重くならないように、通信料金を大幅にカットした特別割引も同時に導入したのです。</p>
<p>この新しいビジネスモデルは、お陰様でユーザーの支持をかち得ることが出来、今やすっかり定着したのですが、ここにもアキレス腱があります。</p>
<p>「浜の砂子は尽きぬとも」という石川五右衛門の言葉を借りるまでもなく、世の中に悪いことを考える人達の種は尽きず、我々はしばしば高額の割賦残債を踏み倒され、この人達が詐欺的な方法で入手した端末は、今でも香港などの街角で数多く売られています。</p>
<p>現状では「より堅固なSIMロック」が、このような犯罪に対抗する有力な手段の一つと考えられており、欧米各国でもこの開発に力が入れられているのですが、「SIMロック」自体を禁止されてしまっては、打つ手がなくなってしまいます。</p>
<p>「SIMロックの解除」には、もう一つ他の問題もあります。</p>
<p>現実問題として、種々のデータサービスは、一方では、端末のスペックにある程度依存せざるを得ませんし、他方では、「通信履歴」「時間と場所に関連する通信制御」「課金」「位置認識」等々、通信事業者固有のサービスとも連携せねばならない側面もあります。これらのファクターを完全に切り離してしまうと、良質のサービスは提供できなくなりますし、運営の色々な局面で不具合を生じることも出てくるでしょう。</p>
<p>「SIMカードを変えたら、一部のサービスがスムーズに受けられなくなった」というようなユーザーのクレームが頻発したら、一体誰が責任を取るのかという点も不明確です。また、そもそも「ノキアやアップルのような端末メーカーは自由に端末と種々のデータサービスのバンドルが出来るのに、通信事業者はネットワークとデータサービスのバンドルが出来ない」ということになれば、これは方手落ちということになってしまいます。</p>
<p>このように、「SIMロックの解除」は多くの問題を含んでいますので、今後とも総務省が各通信事業者やサービス業者と十分な協議を行いながら、慎重に検討をしていかれることを望む次第です。</p>]]></description>
            <link>http://tedm.sbibusiness.com/2008/07/post-13.html</link>
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            <pubDate>Wed, 30 Jul 2008 10:54:09 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>閑話休題－１　「朱蒙」の話</title>
            <description><![CDATA[<p>私のブログは、毎回かなり重いテーマを長文で論じているのですが、これでは息が詰まるので、今後は重いテーマの合間に、「情報通信の将来像」とは関係のない、短い随筆風のものも、随時挟ませて頂こうと思っています。（これは、ブログというものの性格について一家言を持っておられるある方の助言でもありました。）今回はその最初の試みです。</p>
<p>私は実は現在のＣＳ放送の最初の仕掛け人であり、そのずっと後になってデジタルＢＳ放送が始まる時には、或る民放のトップの委託を受けて、新しいビジネスモデルの提言をさせて頂いたこともあります。にもかかわらず、実は最近になるまでデジタルＢＳ放送を受信出来る受像機を持っておらず、最近なってやっと新しい受像機に買い換えた次第。ところがＢＳ放送を見始めると、我々のような年代の人間にとっては、ＢＳの番組の方が、全視聴者の最大公約数をひたすら追求しているこれまでの地上波放送の番組より、はるかに合っている事がわかりました。</p>
<p>面白いのは、主として旅番組と海外で作成された番組ですが、私にとっては、特に興味深いのは韓国の歴史ドラマです。中でも、フジＴＶが水曜日にやっている「朱蒙」には、すっかりハマってしまいました。日本の歴史ドラマは、同じテーマを扱ったものをこれまで何十回も見せられていますし、中国のものも、「項羽と劉邦」とか、筋としては既に知っているものが多いので、見ていてあまり緊張感がありません。ところが韓国の歴史ということになると、たいていの日本人は殆ど何も知らず、私も例外ではないので、全ての筋書きがとても新鮮なのです。</p>
<p>「朱蒙」は、「高句麗」の創始者の青年時代を描いた大河ドラマで、韓国では驚異的な視聴率を記録した大ロングセラーだったのですが、「成る程、これならヒットしたはずだ」と頷けるだけの、随所に工夫を凝らした見事な作り込みです。「権力闘争」というものの本質や、それに関連する種々の「駆け引き」、そのベースにある「腹のくくり方」といったことも、登場人物の口を借りて、現代にもつながる深さをもって語られています。欲を言えば、戦闘シーンや群集が集まるシーンには、実際に動員した人数の５－６倍ぐらいを動員し、これにＣＧを組み合わせていれば、もっと現実的な迫力のある映像が作れたでしょうが、ＴＶドラマですから、そこまでは無理だったのでしょう。</p>
<p>これは、中国の歴史では「漢」の時代の物語ですから、日本の歴史で言うと、卑弥呼、或いはそれ以前の時代、つまり「古事記」や「日本書紀」に描かれていた時代のことです。（この物語の中頃に出てきた日蝕も、おそらくは、日本の「天の岩戸」伝説のベースになったに違いない日蝕と、同じものだったのではないかと思われます。）そういうことを考えていくと、更に興味が増します。やはり古代の日本は、中国との距離が離れていた分だけ、文化的には少し遅れていたようです。</p>
<p>それから、これは「朱蒙」の話だけに限らないことですが、韓国の人達にとっては、歴史上のどんな時点でも、常に中国人との（或いは中国に侵入したり追い返されたりしてきた北方の騎馬民族との）緊張関係が絶えなかったことが、如実に見て取れます。異民族との間での支配、被支配の関係は、「城は焼け落ち、殿様やその周辺は切腹しても、庶民の生活はあまり変わらない」という単一民族の日本の状況とは比較にならないほどに厳しいものであったに違いなく、こういう環境を凌いでいくために必要な「忍従」や「駆け引き」は、普通の日本人にはなかなか理解できないレベルのものだったと思われます。</p>
<p>もう一つ、韓国の歴史ドラマに特有なのは、「商団」というものが重要な役割を演じていることです。「商団」は、或る程度の武力を持ち、あらゆるところに出かけて行って、その地の権力者と交渉して取引をまとめ、巨額の富を蓄えています。或る「部族」の長がそのまま「商団」の長であり、その「部族」の運命は、「商団」の運命に完全に依存しているというケースも多かったようです。勿論ドラマ故の誇張も相当あるでしょうが、この「商団」の長が随所で示す、「合理性」と「根性」に裏打ちされた幾つかの「決断」も、近江の国の「持ち下り商人」の末裔である伊藤忠商事に長年勤めていた私にとっては、大変興味のあるところでした。</p>
<p>「竹島（独島）問題」や「教科書問題」を持ち出すまでもなく、「日韓関係」（或いはその延長線上にある「日朝問題」）は、常に双方の感情問題が絡まった、微妙で難しい関係です。一方、経済の分野では、今や一部では日本企業を凌ぐ力を蓄えた韓国企業も出現しており、一面では手ごわい競争相手、一面では良きパートナーという関係です。日中関係や日米関係ほどのダイナミックなインパクトはなくとも、日韓関係（及び日朝関係）が日本にとって引き続き極めて重要であることは間違いありませんが、このような歴史ドラマは、我々が相手を理解する上での、幾つかの貴重なヒントを与えてくれるように思われます。</p>
<p>「朱蒙」は81話で完結ときいていますが、現在、日本のＢＳ放送では63話まで来ています。先の話はＣＤを買えば今すぐにでも見られるのですが、折角ですから、やはり毎週水曜日を楽しみにしていこうと思っています。</p>]]></description>
            <link>http://tedm.sbibusiness.com/2008/07/post-12.html</link>
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            <pubDate>Thu, 17 Jul 2008 14:01:25 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ヘゲモニー争いの読み解き方</title>
            <description><![CDATA[<p>iPhoneがソフトバンクから発売されることになり、多くの方々の関心を呼んでいます。ソフトバンクとしては、全力をあげてiPhoneを販売し、その上に乗るソフトを拡大強化して、iPhoneを一層価値のある商品にするべく努力していくのは勿論です。しかし、私は、このブログでも他の場所でも、iPhoneについてのコメントはいたしません。ソフトバンクとしての一大戦略商品ですから、全てのコメントは、孫社長自らか、或いは広報部から出るべきだからです。</p>
<p>但し、これに関連して、「インターネットの世界」と「通信の世界」の関係、「端末機メーカー」と「通信キャリアー」の関係や、「オープン」と「クローズ」の比較、「SIMロック」の功罪などについての議論も、一段と活発になっているようですから、そのことについては、一般論として一言コメントしてみたいという気持になりました。というのも、こういう問題は、常にサプライ側の観点から議論されており、ユーザーの観点から見ると実は非常に簡単な図式で全てが動いているにもかかわらず、それに言及されることがあまりないように思えるからです。</p>
<p>ユーザーはその商品やサービスが自分の為に具現してくれる「価値」と、そのために使わなければならない「お金」のバランスを考えながら、自分が買うものを決めます。（勿論、「みんなが買っているから」とか、「店頭で熱心に薦められたから」とかの理由で、勘違いして買ってしまうケースもあるのですが、そのことについてはここではあまり深入りしないことにします。）そして、携帯端末の場合は、その「価値」は「端末機」そのもの、その上で使える「サービス・コンテンツ」、端末機とサービス・コンテンツを一体として機能させる「通信ネットワーク」の三つのコンビネーションによってもたらされます。</p>
<p>商品やサービスの供給者は、この全てを自分一人で供給したいのは山々でしょうが、多くの場合はそうもいかないので、他の会社から必要なものを買ったり、他の会社と提携したりして、トータルの価値を具現させようとします。従って、ユーザーがその「価値」に対して支払う「お金」も、その価値を具現することに関与した人達の間で「山分け」されるのは当然のことです。その「山分け」のやり方を巡って、関係する会社の中でいろいろ交渉が行われ、いろいろな形の契約がなされるわけですが、自分の会社に長期的にも短期的にも何の価値ももたらさないような契約は誰もするわけはありませんから、その商品やサービスが売れる限りは、関係者全員は何らかの「儲け」を得る訳です。但し、その「儲け」の大小は力関係によって決まりますから、この交渉は当然大変厳しいものになります。</p>
<p>「力関係」に関連しては、ジャーナリズムの世界では「誰がヘゲモニーを握るか」が、常に最大の関心事であるかのようです。ジャーナリストだけではなく、政治家や企業家も皆そうかもしれません。古来、「誰が戦争に勝ったか」「誰が政治経済を支配することになったか」が、常に歴史の記述の中心になってきましたし、人々の興味もそこに集中されてきました。しかし、よく考えてみると、庶民の生活というものは、実はそんなことにはあまり関係なしに、いつの時代も連綿と続けられてきたわけです。</p>
<p>例えば、ユーザーがある商品の価値を認めてそれを買った時、誰が勝者だったのかと言われても、にわかに答えは出ません。その商品にはブランドがあり、誰かが最終商品の設計をし、誰かが鍵となる部品を供給し、誰かが必須特許をライセンスし、誰かが最終組み立てをし、誰かが性能を保証しているわけですが、この中で、誰が誰を支配し、ヘゲモニーを握っているかといえば、必ずしもはっきりはしません。組み立てメーカーは、揉み手をしながら売込みをしてくる部品メーカーの中から１社を選んで、商売をくれてやったと考えているかもしれませんが、実はその部品がなければ、ユーザーに認めてもらえるような商品価値が出せないというケースも多々あります。「ブランドなどはどうでもよい」というケースもありますが、逆に「ブランドこそがその商品の生命線である」というケースも数多くあります。</p>
<p>市場によって、「誰がヘゲモニーを握るか」も変わってきます。携帯電話の場合は、日本では通信キャリアーが全ての中心にありますが、欧州では端末機メーカーであるノキアが圧倒的な力を持っています。欧州を中心としたGSMの世界では、もともと携帯電話機は、メーカーがそれぞれの関係する流通機構を通して売っており、通信キャリアーはネットワークを選択する機能を持ったSIMカードというものだけを売っていました。通信キャリアーは、「端末機の企画をしたり、宣伝をしたり、在庫管理をしたりする面倒」から逃れて、比較的気楽な商売をしていたのですが、これが祟って、気がついた時には、ここで苦労を積み重ねてきたノキアなどの端末メーカーに、すっかりヘゲモニーを握られてしまっていたということです。この力を背景に、ノキアは、サービスやコンテンツの分野でも自社の支配力を確立しようとしています。</p>
<p>ノキアが長年かけて築きあげてきた支配力を、たった一つの商品で一気に確立しそうな勢いを見せているのがアップルです。これまで携帯電話の世界では全く何の経験も実績もなかったアップルが、世界中の通信キャリアーに自社の主張するビジネスモデルを飲ませることが出来たのは、彼等が心血を注いで開発したiPhoneが、多くの人達の心を捉え、「当面は誰もこれらの人達に心変わりをさせるような商品を売り出せそうにない」という状況をつくったからに他なりません。即ち、ヘゲモニーは本来はユーザーが握っているのであり、「他社に真似の出来ないような商品やサービスでユーザーの心を捉えた会社」に、自然にこのヘゲモニーは移転するということです。</p>
<p>「検索」というサービスで圧倒的な力を築き、それ故に膨大な広告収入を手中にしたグーグルが、「成長を続ける携帯電話の世界でもヘゲモニーを握る」ことに興味を持ったのは十分理解できます。それ故にこそ、彼等は価値を生み出す残り二つのファクター、「端末機」と「ネットワーク」をどうしようかと考えたようです。結果として、彼等は自ら多額の資金を拠出してアンドロイドというプラットフォームを開発し、多くの端末機メーカーが自由にこれを使えるようにする一方、新たに使えるようになった周波数を入札で落として、自ら通信オペレーターになろうとする構えを見せました。しかし、前者は着々と進んでいるようですが、後者については、ベライゾン等の既存の通信事業者が「ネットワークをオープンにして、その上でサービスやコンテンツを自由に流通させる」ことを約束したことだけで満足して、彼等に大差をつけられるような安い価格でしか応札しませんでした。</p>
<p>グーグルがアップルのような端末機メーカーになろうとしたり、膨大な資金を固定しなければならない通信事業にのめりこんでいったりすることを懸念していた投資家達は、これでさぞかしホッとしたことでしょうが、考えてみれば、これはグーグルとしては当然のことだったと思われます。グーグルはユーザー価値の三要素である「端末機」「サービス・コンテンツ」「ネットワーク」の全てを自らの支配下におくことは考えず、自らが得意とし、且つ一番効率が良いと思われる「サービス・コンテンツ」に集中し、「但し、他の二つの要素がその阻害要因にならないようにする」だけの手を打ったのでしょう。「自らネットワークを運営して儲ける必要はなく、ネットワークは中立であってくれさえすればよい。」「自ら端末機を作って儲ける必要はなく、多くの端末機メーカーが自分達のサービスをサポートする安価な端末機をつくってくれればよい。」それがグーグルの考えであったに違いありません。</p>
<p>私は現在、世界中の携帯通信事業者が結集しているGSMアソシエーションという団体のボードメンバーになっていますが、そこでは、今や多くの通信事業者が、「携帯電話機が携帯インターネット端末に変身しようとしている現状」を理解しつつあり、それと同時に、自分達の将来に対して相当の危機感を共有し始めています。それは、将来のデータ通信から得られる利益の大きな部分が、ノキアやアップルのような端末機メーカーや、グーグルのようなインターネットサービス会社にとられてしまうのではないかという危機感です。つまり、携帯サービスがユーザーにもたらす「価値」が将来大きくなればなる程、ヘゲモニーは有力な端末機メーカーやインターネットサービス会社に握られて、通信事業者は自らを競争相手と差別化する術を失い、結果として、その取り分が段々と小さくなっていってしまうのではないかと危惧しているわけです。</p>
<p>これに対して、日本では、通信事業者がメーカーから端末機を買い取り、自ら流通を取り仕切る立場にあるため、「端末」と「ネットワーク」の二つの分野でのヘゲモニーを握っている上に、ソフトバンクの場合は、元々がインターネットと共に育ってきた会社であって、自らの支配下にあるヤフーが日本ではグーグルをも凌ぐ力を持っているのです。欧米の通信事業者から見れば、これは羨望に値することであり、ソフトバンクのような会社がこれからどのような未来を築いていこうとしているかに、大きな興味を持っているのも当然と言えます。</p>
<p>ところが、皮肉なことに、日本では、携帯端末メーカーが海外市場では全く不振である現状に危機感をもった総務省が、この原因が「通信事業者の過大な支配力にある」と勘違いした節があり、携帯端末の企画と流通を巡る現在のビジネス慣行に介入することを考えはじめたかのようです。しかし、私の見るところでは、この介入の中には、妥当なものもありましょうが、どうでもよいもの、却って害があるものも含まれているように思います。元来「規制」というものは、「独占の弊害を防いで、自由で且つ公正な競争を実現する為にどうしても必要な場合にのみ限るべき」ですから、実際の運用には慎重を期してほしいと思っています。</p>
<p>総務省が考えていることで私が双手を上げて賛同しているのは、ネットワークレイヤ、プラットフォームレイヤ、サービスレイヤなどを切り分け、その境界線は完全にオープンにするという考え方です。この目標とするところは、「一つのレイヤで独占的な力を持っている企業が、これによって他のレイヤも支配し、その分野で様々な新しいサービスを導入できるだろう人達の自由闊達な参入を妨げるようなことがない様にする」ということだと思います。これに異を唱えるつもりは全くありません。</p>
<p>但し、この目標とするところ自体は妥当でも、実際にどうすればよいかということになると色々と難題があります。そもそも、「種々のサービス」を「端末機自体が元々持っている種々の機能」と完全に切り分けてしまうことは不可能で、「サービス」と「端末」はある程度シンクロせざるを得ません（サーバ・クライアントのシステムとしての一体化）。次に、日本に限らず今や全世界で、「端末機の価格と支払条件」は「ネットワークの長期使用」と紐付けされるケースが多く、従って、「端末機」と「ネットワーク」も完全には切り離すことは困難なのです。即ち、ユーザーが享受する価値を具現する為に必要な「端末機」「サービス・コンテンツ」「ネットワーク」の３要素は、建前上は分離出来ても、現実には密接に絡み合っていて、完全な分離独立は不可能だということです。</p>
<p>具体的に言えば、総務省が推進しようとしている具体的な施策も、建前だけで単純に物事を進めようとすれば、メリットよりもデメリットの方が多くなってしまう可能性があるということです。例えば、具体的な施策の一つとして考えられている「SIMロックの禁止」、即ち、「ネットワークを特定する機能を持ったSIMカードを端末機に紐つけることの禁止」等は、「長期間同じネットワークを利用する見返りに、安く端末を買いたい」と考えるユーザーにとっては、極めて迷惑な「お節介」になってしまいますし、「通信事業者への割賦債務を踏み倒して、安く手に入れた端末を売り飛ばす」という犯罪を助長することにもなりかねないのです。</p>
<p>この様に、具体的な運用においては数々のきめ細かい配慮が必要であるにしても、「各レイヤの境界線を明確且つオープンにして、各レイヤでの自由闊達な競争を実現する」ことが望ましいことには何ら疑問の余地はありません。また、それに対する我々通信事業者の回答も既に出ていると思います。それは、各レイヤにおけるプレゼンスを自ら確立するか、或いは他の企業と密接に提携することによって、各レイヤ間のスムーズなインテグレーションを可能にし、これによってユーザー価値を最大化していく努力をしていくということです。ユーザーは多くの選択肢を保証されますが、結局は最も大きな価値を具現してくれるパッケージを選ぶことになるだろうからです。</p>
<p>どんな時代でも、「ユーザーにとって何が一番よいか」を常に考えていけば、国の政策も企業の戦略も誤るということはないと確信しています。</p>]]></description>
            <link>http://tedm.sbibusiness.com/2008/06/post-11.html</link>
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            <pubDate>Mon, 30 Jun 2008 10:18:46 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>小中学生に携帯を持たせてはいけないのか？（続き）</title>
            <description><![CDATA[<p>前回のブログを書いた後、この件でいろいろな方々と話す機会がありましたが、「国が小中学生の携帯所持を禁止する」という、「まさか」と思われるような議論が、福田首相を含めた国政の高いレベルで本気で行われていることを知って、正直に言って驚愕を禁じ得ませんでした。</p>
<p>昨日、私は西欧の某国の経済・行政改革大臣とお話をする機会がありました。ソフトバンクをご訪問頂いた位ですから、この人の興味は、日本の先進的なITの活用状況について知ることであり、こちらからお話した幾つかの事例については、相当感心して聞いて頂けましたが、帰り際に、こちらから、「ところで、日本では最近、子供が悪質なモバイルインターネットサイトにアクセスして犯罪に巻き込まれるケースが頻発している為、『子供に携帯電話機を持たせない』という規制を行うことが今議論されている。それについてどう思われますか？」と聞いてみたところ、この人は目を丸くして、"That's crazy"と言っていました。crazyを日本語に直訳すれば、「気違いじみている」ということですから、一国の大臣の発言としては、相当強い驚きの表現といってよいでしょう。</p>
<p>「全てのものは危険な側面を持っている。その危険を回避する方法を身に付けさせるのが教育だ」と、彼は強調していましたし、携帯電話については、「私にも小学生の息子がいるが、いつも私にメールを送ってくる。うれしいし、『もうそういうことが出来るんだ』と誇らしい気持にもなる」と言っていました。日本人、外国人を問わず、庶民の日常から隔離されてしまっている人を除けば、これが多くの人の考えの最大公約数に思えてなりません。</p>
<p>携帯電話機は、今や日本で１億人に近い人たちが使っている一種の「生活必需品」です。また、多くの人達にとって、メールは今や電話以上に身近で必要不可欠なものです。六十歳に近くなった私の家内でも、電話ではなかなかつかまりませんが、メールならすぐ返事がきます。親子間の連絡も、「普通はメール」という人達は多いでしょう。その方が安いですし、言いにくいことも簡潔に言えますから・・・。「お前は子供だから携帯は使わせない。メールも駄目」と言われたら、私が子供なら怒り狂います。「子供は靴は履くな」といわれているに等しいからです。</p>
<p>某国の大臣の発言を引用するまでもなく、危険な側面を持った生活必需品があったら、それを安全に使いこなせるようにするのが教育の責務です。それを単純に禁止するというのは、責任の放棄であるとともに、教育行政に対する侮蔑ではないでしょうか？文部科学大臣はなぜ黙っているのでしょうか？</p>]]></description>
            <link>http://tedm.sbibusiness.com/2008/06/post-10.html</link>
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            <pubDate>Fri, 20 Jun 2008 11:49:27 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>小中学生に携帯電話を持たせてはいけないのか？</title>
            <description><![CDATA[<p>出会い系サイトなどを利用した犯罪が増加しており、小中学生が犠牲となる痛ましい事件が頻発しています。「学校裏サイト」での誹謗中傷に耐えかねての自殺も多くなっています。そうでなくとも、子供達が四六時中ケータイの画面とにらめっこをして、夜遅くまでメールのやり取りをしているのを見れば、親としては、「こんなことでよいのか」と少し心配にもなります。ましてや、そのメールの相手の何人かが、どこの誰とも分からない相手だとなると、「これは何とかしなければならない」という気持になるのは当然です。</p>
<p>しかし、だからといって、単純に「小中学生にケータイを持たせなければよい」という結論に走り、「これを法制化すればよい」と考えるのは、あまりに短絡的というか、安易に過ぎるのではないでしょうか？　これは、「問題に正面から向き合わず、逃げている」のに等しいのではないでしょうか？　教育というものを真剣に考えるなら、これを契機に考えなければならないことが、数多くあるように思います。むしろ、今こそ、ケータイにのめりこんでいく子供達の現状を直視し、これをバネにして多くの問題に前向きに取り組んでいくことこそが、必要なのではないかと思います。</p>
<p>「成る程、ケータイが『安心、安全』に役立っているところもあるようだ。それなら、通話と位置認識だけが出来るケータイを持たせればよい。通話相手も登録した何人かに絞るべきだ」という議論もあるようです。これは「完全な思考停止」から比べれば、「一歩前進」といえないこともないのですが、「メールは悪」と決め付け、「ウェブは、良いものと悪いものがあるのだろうが、区別が面倒なので、一括して禁じてしまおう」というわけですから、「思考放棄」に近いものです。</p>
<p>仮に、今、法律によって小中学生にケータイを持たせないということにしても、酒やタバコではないのですから、高校生になってまでこれを禁じることは出来ないでしょう。それならば、「高校生なら学校裏サイトの誹謗中傷で自殺してもよい」ということなのでしょうか？　四六時中ケータイの画面とにらめっこしているのがよくないのなら、高校生になれば、もっとそうなのではないでしょうか？</p>
<p>小中学生時代に無理やりに無菌室に入れられていた子供達は、高校生になってから、少し遅れて、結局は同じラーニングカーブをたどっていくことになるでしょう。小中学生時代なら、いろいろな問題について素直に大人達のアドバイスを受け入れたかもしれない子供達も、高校生になればもっと反抗的になっており、こんなアドバイスには耳を傾けないでしょうから、結局は「独自のやり方」でケータイにのめりこんでいくでしょう。</p>
<p>考えなければならないことがあまりに多くあるので、何から論じ始めればよいのか悩みますが、まずは本質的な問題から入りましょう。人間は生まれつき「闘争心」というものを持っています。古来戦争の種が尽きないのは、「支配欲」や「経済的な必要性」もさることながら、「人間のもって生まれた闘争心」によるところも少なくはないと思います。古代のギリシャ人は、それ故に、「戦争を避けながら、この闘争心を満足させる」ために、オリンピック競技のようなものを考案したのかもしれません。現代人も、老若男女の別なく、スポーツによってこの「闘争心」を満足させているのかもしれません。</p>
<p>子供達に対して、「スポーツは、相手に対する敵対心を生む可能性があるし、怪我をすることが多くて危ないから、禁止する」などという人はどこにもいないでしょうし、むしろ、スポーツによって、子供達の「闘争心」を良い方向に向けようという試みが、数多くなされているように思えます。決して「闘争心」自体を否定しようなどという、無理なことは試みられてはいないのです。</p>
<p>今、「いじめ」の問題が大きな問題になっていますが、人の悪口を言ったり、弱いものをいじめたり、異質のものを排除しようとしたりするのは、残念ながら「人間が生まれつき持っている性格」の一つです。子供の世界では、これが抑制されることなく、ストレートに出てくる傾向がありますし、集団になるとこの傾向が助長されます。これは大変難しい問題であり、教育現場が真剣に取り組まなければならない「人間教育上の大きな課題」の一つです。</p>
<p>子供達の間の「ケータイメール」が、これを更に助長しているというのも事実でしょうが、もし子供達に「いじめ」をやめさせたいのなら、「人間の本質」や「子供の集団というものの本質」にまで迫って、その根を絶つことこそが考えられるべきであり、間違っても「ケータイを禁止すれば、少しは良くなるだろう」などと安易に考えるべきではありません。それどころか、真の教育者なら、むしろ、「子供達の間に広がっているケータイメールを利用して、いじめの萌芽を発見し、これを正しい方向にガイドできないか？」というようなことをすら、この際考えてみて然るべきです。</p>
<p>「いじめ」の問題から離れ、子供の世界におけるメールの功罪を全般的に考えて見ると、更に考えるべきことがたくさん出てきます。「ケータイ」と「メール」は、今や多くの人々の生活の一部になりきっていますから、教育現場もこの事実から決して逃げてはならないと思います。</p>
<p>かつての寺子屋教育では「読み」「書き」「そろばん」が三大教科でしたが、それは社会で生きていくために、或いは仕事をしていく上で、この三つについてのスキルを習得しておくことが必要と判断されたからでしょう。現在では「国語」「算数」「社会」「理科」それに「英語」というところなのでしょうが、「実社会に出てから役に立つ」という観点から言えば、「コミュニケーション」「情報取得（情報検索）」「プレゼンテーション」「ネゴシエーション・ディベート」の四つがもっと重視されてしかるべきです。</p>
<p>教育に従事している人に言わせれば、「そういうものは、特に取り立てて切り出さなくても、日常の授業を通じて教えている」ということなのでしょうが、私は決してちゃんと出来ているとは思えません。特に、「情報取得」や「プレゼンテーション」の能力の涵養には、パソコンやインターネットについての教育は不可欠なのに、その実態はお寒い限りです。</p>
<p>私が興味があるのは、今「小中学生にケータイを持たせるな」という議論をしている方々が、パソコンやインターネットについてはどういう考えをもっておられるのだろうかということです。おそらくは、「パソコンは、どうせ子供は自分では持っていないのだから、管理された教育が可能で、弊害が生じる余地はない」というお考えなのだと思いますが、家にある親のパソコンを自由に使える子供達は結構多く、家に友達をよんで、こっそりアダルトサイトにアクセスしているなどというケースもよくあります。画面上で「あなたは18歳以上ですか？」ときかれて「はい」と答えればよいだけで、フィルタリングも何もないのですから、好き勝手に何でも出来ます。</p>
<p>ケータイは完全にパーソナライズされた端末であり、パソコンとは同列に論じられないことは事実です。しかし、そのことは、「ケータイの方が、利用者ごとに管理するのが容易である」ということも意味します。従って、教育上の観点から、ケータイを「悪いツール」ではなく「良いツール」にすることは、技術的に十分可能だと思うのですが、そのことは十分に議論されていません。</p>
<p>現在のケータイは「持ち運び自由な簡易パソコン」といってもよいほどの存在になりつつありますから、「小中学生に携帯を持たせてもよいかどうか」の議論は、「小中学生に簡易パソコンを持たせてもよいかどうか」という議論と同じであると、私は思います。従って、一方では小中学校におけるパソコン（インターネット）教育の要否を議論しながら、ケータイの問題とそれを結びつけないのは、方手落ちのように思えます。</p>
<p>正直に言うなら、私だって、孫達には、あまりケータイの画面とにらめっこばかりしていてほしくはありません。（更に言うなら、携帯ゲームなんかも持ってほしくはありません。）出来れば、私達が子供だったころのように、遅くまで友達と一緒にその辺を走り回って、泥だらけになって帰ってきてほしいのです。しかし、時代が変われば環境も変わり、身に付けなければならないスキルの種類も変わってきます。中国やインドをはじめとして、発展途上国の子供達が、小さい時からインターネットを使いこなす能力を身につけているのを見るにつけても、孫達には、やはり彼等には負けてほしくはありません。</p>
<p>ここで、もう一度メールの問題に話を戻してみたいと思います。</p>
<p>子供達は、殆ど異口同音に「面と向かっては言えないことも、メールでは言いやすい」ということを言っています。これをもって、「子供達がメールに逃避して、面と向かってものが言えなくなっては大変だ」と憂慮する人達について、私は一面賛成、一面反対です。「相手の顔を見て話す」、更に言うなら、「相手の目をまっすぐに見て話す」ことの重要性は、いつの時代でも第一義に考えなければならないのは勿論ですが、「メール」という、効率面でも心理面でも異なった側面を持つ「新しいコミュニケーションの形式」の重要性にも、あらためて皆さんの注意を喚起したいからです。</p>
<p>ビジネスの世界では、もともと「面談」と「書信」がコミュニケーションの手段でしたが、近年では「電話」と「メール」がこの相当部分を代替するにいたっています。「電話」は「面談」よりはタイミングの合わせ方が容易ですが、それでもタイミングがなかなか合わないという問題を抱えています。これに対し、「メール」は、「電話」と同じような「形式張らない気楽さ」を持ち、それ故にスピードを重視するビジネスに向いているだけでなく、「送受信のタイミングを問わない」「1対Nのコミュニケーションが容易」「コミュニケーションから曖昧さを排除できる」「要点が整理できる」「記録が残る（後々『言った、言わない』の問題を生じることを回避できる）」等の利点があります。昔寺子屋で「読み書き」を教えたのなら、今小学校で「メール」の書き方やマナーを教えたとしても、決しておかしいことではありません。</p>
<p>現在、子供達は、「メールでいつも友達とつながっていないと不安」「少しでも相手の返事が遅いと、無視されているのではないかと不安になる」「こちらからもすぐに返事をしないと、無視されたと誤解される恐れがあるので、それがプレッシャーになる」などという問題を抱えているといわれています。この問題を解決するのは、「とりあえずメールを使わせない」等という後ろ向きのものではなく、「メールの意義やマナーをきちんと教える」という前向きのものであるべきです。</p>
<p>ちなみに、俗に「すぐレス」と呼ばれている、この問題の存在を知った時、私には奇妙な感慨があったことを、ご披露しておきたいと思います。</p>
<p>私は若い時商社マンで、駐在先のソウルやシカゴで、本社の関連部署を一人で代表する仕事をしていました。いろいろな問題で客先から答をせっつかれることが多いのですが、そういう時頼りになるのは本社からのテレックスによる返事だけで、これがないとどうにもなりません。にもかかわらず、何日待っても本社からは「ナシの礫」で、ウンともスンとも言ってこないことが多いのです。国際電話は高くつくのでめったなことでは使ってはいけないことになっていたのですが、辛抱たまらず、本社の担当者を電話で呼び出し、「あのねえ、もし道で出会って、こちらから『最近どうですか？』とか何とかきいたら、少なくともあなたも何か答えるでしょう？　プイと横を向いて何も答えないというようなことはありませんよね。それなのに、テレックスになると、何でそういうことをするのですか？　こちらの身にもなって、一言ぐらいは何とか言ってくださいよ」と文句をつけたものです。「もし、みんなが子供の時から『すぐレス』のマナーを身に付けていたら、あんなストレスは感じなくてもよかったのになあ」と、昔を思い出し、私は今更ながらに考えた次第です。</p>
<p>そろそろ結論を言わせてください。</p>
<p>１）「子供に携帯電話を持たせない」ことを制度化することには賛成できない。</p>
<p>２）むしろ、積極的に子供にケータイの正しい使い方を教え、これをインターネット教育の一環とすべきである。</p>
<p>３）有害サイトに対する規制とフィルタリングは徹底する。</p>
<p>４）学校裏サイトに監視の目を光らせ、これを問題の早期発見に役立たせるべきである。</p>
<p>これが私の現時点での提案です。</p>
<p>ついでに、最近話題になっている小学校での英語教育についても一言。</p>
<p><br />これに関連して、「教員の不足に頭を悩ませている」という新聞記事を読んだことがありますが、これは馬鹿げたことだと思います。生徒達にはビデオで学ばせ、先生はそれを生徒達と一緒に見ながら、いろいろなアドバイスをしていけばよいだけのことです。中国などは日本以上に教員不足でしょうが、このやり方で、平気でやっています。「外国人に通じない英語しか話せない先生に生徒に教えさす」のは間違いですが、それ以前に、「生徒は先生からしか学べない」と決め付けている固定観念の方が、どうしようもないと思います。プロが作ったビデオの方が、子供達にははるかに楽しいでしょうし、実効もあるでしょう。</p>
<p>更に言うなら、中学生ぐらいになれば、インターネットで世界中の子供達と交信させた方が、はるかに生徒達に対する刺激になるし、英語とインターネット・リテラシーの両方を同時に学ばせる教育効果も得られるしょう。教育問題に関連して「ケータイ」の問題が取り上げられたことを好機として、今こそ、議論を「コミュニケーション教育」「インターネット教育」の問題にまで広げていくべきです。</p>]]></description>
            <link>http://tedm.sbibusiness.com/2008/06/post-9.html</link>
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            <pubDate>Tue, 03 Jun 2008 00:14:35 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>良い競争　悪い競争</title>
            <description><![CDATA[<p>「競争こそが、各企業に『創意と工夫』を促し、結果として、よりよいサービスがより安く顧客に提供される」ということは、あらゆる場で繰り返し言われており、あらためて申し上げるべきことでもありません。「通信事業のように独占体制から出発した分野では、『自由な競争』だけでは駄目で、いろいろに工夫を凝らして、『公正競争』が担保されなければならない」ということも、以前のブログで申し上げました。</p>
<p>しかし、それでは、およそ「競争」と名の付くものは、全てよいことなのかと言えば、必ずしもそうではないと考える人が多いでしょう。世の中には、「意味のない競争」「悪い競争」と考えられるものも、結構あるようです。</p>
<p>一つは過当競争です。</p>
<p>或る会社が、シェアを増やすために目茶な値引きをし、結果として業界全体が消耗戦に入り、値引き合戦を仕掛けた会社を含む何社かが倒産するというケースがあり得ます。この場合、結果として、市場は生き残った数少ない会社の寡占状態になりますが、これらの会社も疲弊している為、サービスの向上などは望むべくもなく、「サービスは低レベルのままで、徐々に価格が上がっていく」という状況を引き起こします。</p>
<p>もう一つは不当競争です。</p>
<p>これは、圧倒的に優位な立場にある会社が、対応力に劣る競合他社を破綻に追いやる目的で、価格を下げたり、過剰なまでのサービスを行ったりするケースです。「既得権を背景に、新規参入者を水際で撃退する」などのやり方も、この範疇に入ります。常に何度か申し上げたように、通信事業のような分野では特にこれが起こりやすいのです。と言うのも、通信サービスでは、「全国カバー」や「規模の利益」といったことがキーワードになりますし、各家庭まで銅線や光ケーブル引き込んだり、あらゆる場所に電波が届くように無線局を建設したりするには、先行して場所を確保していることが圧倒的な強みとなるからです。</p>
<p>このような「悪い競争」は、最終的には利用者に不利益をもたらすのですから、利用者自身が十分賢くならなければならないわけですが、これは実際には困難なことです。また、「過当競争」の方は、事業経営者が賢くなることで或る程度防げますが、「不当競争」の排除には、国が「構造改革」のイニシアティブをとったり、或る程度の規制を行ったりすることが、どうしても必要となります。</p>
<p>「良い競争」と「悪い競争」を見極めることも、そう容易なことではありません。一見良いことのように見えても、悪い結果を呼ぶことは結構多いからです。その一つの例として、私はここで、「電波の入札制（オークション）」のことを論じてみたいと思っています。</p>
<p>結論を先に言えば、私は、一般には「最も透明性が高く公平である」と見られている「電波のオークション」には反対です。</p>
<p>こんなことを言うと、「ソフトバンクは既に多くの周波数を所有する第1種通信事業者だからそんな保守的なことを言うのだろう」と思われる方が居るかもしれませんが、私は一介のテクノロジーベンダーであったクアルコム時代から、一貫して「オークション反対論」を述べています。クアルコムのような米国企業や、米国企業の海外進出を後押しする米国政府は、通常は「オークション万能論者」ですから、このような私の立場は特異なものとみられていましたが、私は論理的に説得して米国本社にも納得してもらいました。</p>
<p>私は、硬派のブロガーとして有名な上武大学の池田信夫先生のフアンで、先生の歯切れの良いブログにはいつも賛同するところが多いのですが、この点については意見を真っ向から異にしています。昨年末にWiMAXの免許についての議論がホットだった時に、先生が所属するICPF主催のフォーラムがあり、私は競合他社の方々とオープンに議論が出来るのを楽しみに喜んでお誘いに応じましたが、何故か他社からは誰も出てこられなかった為、このフォーラムでは、結局は「オークションの賛否」についての議論が多くなりました。池田先生をはじめとして、ご出席の先生方の多くは、「ビューティーコンテストでは、評点の振り分け方等を決めるところから、既にその妥当性に疑義が生じる可能性が強く、公正を期することは事実上困難である。結局、オークションしかない」というご意見だったのですが、私は現実的な見地から異を唱えました。</p>
<p>私が現時点でオークションに反対する根拠は下記4点です。</p>
<p>１）オークションでは、「万一の落選」を恐れなければならないため、どうしても高値応札となり、このことが結果として肝腎の設備投資を遅らせて、サービスの質を落としたり、サービスコストを上昇させたりすることにつながる。（欧州の３Ｇサービスの充実が遅れているのは明らかにこれに起因している。）</p>
<p>２）これまでの周波数の割り当ては「済んだこと」としてそのままにされ、新しい周波数の割当のみにオークションが適応されるとして、結果として、新しい周波数割当に頼らざるを得ない新規事業者にコストハンディキャップを課することになり、「既得権者の保護」につながる。</p>
<p>３）技術や市場の本質を理解しない企業が「勘違い」によって高値落札し、事業化の途中で断念したり、サービス開始後に破綻したりすると、大きな経済的ロスが生じるのみならず、貴重な周波数が長期間にわたり使われず、その期間中ユーザーは「よりよいサービス」を受ける機会を逸失することになる。</p>
<p>４）高値入札の結果得られた高額の収入は、そのまま国庫に納められ、一般財源として運用される可能性があり、こうなると、国が本来は最も育成していかねばならぬ筈の通信情報産業から、他産業への「資金の移転」が行われる結果になってしまう。</p>
<p>しかし、私も、「オークションという『一つのオプション』を常に念頭において、全てのことを議論する」ということ自体には、諸手を挙げて賛成です。そうすれば、現行のビューティーコンテストも、今後は、より深く、よりオープンな議論を経て行われるようになるでしょうし、「現状で無駄に使われているのではないかと思われる周波数（私は相当あると睨んでいます）」については、現在それを使っている人達に、「仮にこれだけの金を払う必要があったとしても、同じように使い続けますか？」という問い掛けをすることができるようになるからです。</p>
<p>さて、話が「電波の入札制の可否」の方に深入りしてしまいましたが、ここで話の本筋を元に戻し、携帯通信の世界で、現在ソフトバンクが果敢に仕掛けている競争が、「良い競争」なのか「悪い競争」なのかということを、少し論じてみたいと思います。というのも、世の中には、「ソフトバンクはやり過ぎで、このような競争のあり方は業界を疲弊させる」と考えておられる方も結構居るようだからです。勿論、私は「これは良い競争である」と考えているわけですから、その根拠をここでご説明したいと思います。（これは、以前にある方からご質問を受けていたことで、「そのうちにこのブログで説明します」とお約束していたことでもあるので、この機会にこのお約束を果たします。）</p>
<p>先にも申し上げましたように、通信事業というものは、他の分野以上に、どうしても寡占にならざるを得ない性格を持っています。膨大な資金を投じて日本中をカバーするネットワークを構築せねばならず、しかも、常に「施設の場所の確保」という難しい問題を抱えているからです。</p>
<p>米国の携帯通信業界を見ると、お互いにしのぎを削っていた多くの会社が合併と買収を繰り返し、現在はAT&amp;T とVerizon の2強にSprintとT-Mobileが続く4強体制にあり、その中で、4位のT-Mobileが3位のSprintを買収するのではないかという噂が流れています。</p>
<p>欧州では、英国を拠点として主要各国にプレゼンスを拡大しているVodafoneが、Telefonica/O2（西、英）、Telecom Italia(伊)、T-Mobile (独)、Orange（仏）などの各国の強豪に各地で挑んでいるという構図があります。</p>
<p>お隣の韓国は、SKT、KTF、LGTの3社体制ですが、800ＭＨｚの黄金周波数を独占しているSKTの力が強くなりすぎないように、国が種々の非対称規制をかけて、下位の2社を支援してきたという歴史があります。最近では2位のKTFが1位のSKTに迫りつつあります。</p>
<p>自国開発のTD-SCDMAという技術にこだわって３Ｇの導入が遅れた中国では、先行したチャイナモバイルが圧倒的な力を持ち、これに対抗するのは、GSM とCDMAの二つのシステムを並存させねばならないチャイナユニコム1社だけという現状ですが、３Ｇの導入に合わせて、チャイナモバイル、チャイナテレコム（日本のNTTにあたる会社　チャイナユニコムのCDMA部門を買収予定）、それに新チャイナユニコム（チャイナユニコムのGSM部門をベースに、チャイナテレコムから枝分かれしたチャイナネットコムが合流）の3社体制が、政府主導の下に近々確立される見込みです。</p>
<p>従って、NTTドコモ、KDDI、ソフトバンクという日本の3強体制も、大体世界の流れにあったものだといえますが、1年半前ごろまでは、まだこの構図は見えていませんでした。</p>
<p>ソフトバンクが買収する前のVodafoneは、「海外に強い」ということ以外にはどこといって特徴もなく、経営は日本の実情に合っておらず、恒常的にシェアを落としていっておりました。恐らくドコモもKDDIも、「このVodafoneのシェアを奪っていくことはさして難しくなく、やがて2強体制が確立されるだろう」という見通しを前提に、自社の経営の将来像を描いていた筈です。</p>
<p>ソフトバンクとイー・アクセスが1.7GHzの周波数を獲得し、新規事業者として名乗りを上げた時点でも、「これらの2社が生き残って成長していくには相当の困難があり、自分達を脅かす存在にはなり得ない」と考えた筈ですし、ソフトバンクが方向転換をしてVodafoneを買収した時にも、「これだけ身分不相応の財務負担を負ってしまっては、拡大戦略推進の余力はないだろう」と考えたことでしょう。ソフトバンクはかつてADSLで業界を震撼させた価格革命を行った会社故、当然「悪夢の再来」の可能性も危惧したでしょうが、「価格戦争になれば、資金余力のない会社は生き残れない」という原則があるので、それ程心配はしていなかったでしょう。</p>
<p>これは、別に彼等が傲岸であったわけではなく、「合理的に考えていくと、当然そういう結論になる」ということだったと思います。政治の世界でもそうであるように、一旦2大政党制の流れが出てくると、この流れに抗して第3の政党が出てきたり、多党分立になったりするのは、現実には相当に難しいことです。</p>
<p>ところが、蓋を開けてみると、ソフトバンクは大健闘。この4月には「12ヶ月連続純増トップ」という快挙を成し遂げ、市場占有率も、僅かずつではありますが、着実に上昇しています。これは一年前には誰も予想しなかったことであり、ドコモもKDDIも、あらためて「ソフトバンク恐るべし」という思いに駆られ、戦略練り直しの必要性を感じつつあるものと思われます。</p>
<p>しかし、一方では、この事実を冷ややかに見る人達もいます。「ホワイトプランなどで思い切った安値を出したのだから、或る程度シェアが取れるのは当然だ。しかし、安値で競争を仕掛けているのだから、ARPU（加入者一人当たりの収入）は低下しており、これでは勝ったことにはならない」というのが、こういう人達の冷ややかな見方の背景です。</p>
<p>「成程、革新的で多彩な商品企画やテレビCMの大成功、量販店ルートの飛躍的な成長など、マーケティング能力はたいしたものだが、これらは、はやがては種の尽きる『戦術的な勝利』にすぎず、ネットワークやプラットフォーム戦略では未だ見るべきものがないので、やがて息切れする」と見ている人達も居るようです。</p>
<p>更には、「現在のような身を削る低価格戦略は、ソフトバンクの市場シェアが未だ小さいからこそ成り立つものであり、所詮は弱者のゲリラ戦に過ぎない」と突き放す人達や、「そもそも長期的に勝ち目のない低価格戦略は、業界全体を疲弊させるだけの自殺行為」などと極言して、相変わらずの「ソフトバンク性悪説」に固執する人達さえ居るようです。しかし、本当にそうなのでしょうか？</p>
<p>私は、かつて、ドコモが圧倒的な強さを誇っていた時に、「パックス・ロマーナ（ローマ支配下の平和）」という言葉をもじって、「パックス・ドコマーナ」とこれを呼び、日本の将来の為に、この「実質的無競争状態」がもたらすものを危惧しました。この為、私は、「CDMAを導入したKDDIに何とかしてドコモを脅かす存在になって欲しい」と念願し、その為に自ら相当の努力もした積もりです。</p>
<p>しかし、その後、孫さんの携帯通信に対する不退転の意欲を見せ付けられ、「日本は『二大政党』ではなく、『三国鼎立』となるだろうし、その方が良い」と感じるようになりました。考えてみると、現在の日本の携帯通信業界は三国志の世界に似ています。圧倒的な力をもった「魏の曹操」に擬せられるドコモ、地の利を生かし、いつの間にか曹操を脅かす存在になった「呉の孫権」に擬せられるKDDIに対し、ソフトバンクは、ほぼゼロから出発し、空き家同然になっていた蜀の地を押さえて「三国鼎立」の形を作った「劉備玄徳」に擬せられます。（尤も、私などは、もしその中で「諸葛孔明」の役割を果たせるのなら嬉しかったでしょうが、現実にはせいぜい「伊籍」とか「馬良」程度です。）</p>
<p>先にも述べましたように、第三のプレーヤーは常に極めて難しい立場に立たされるのですが、もし彼等が頑張れば、「二大政党」よりは「三国鼎立」の方が望ましいのは明らかです。2社間の競争より3社間の競争の方が創意工夫の幅が広がるし、2社が裏で手を結ぶことによって実質独占の弊害が生まれる可能性もなくなるからです。特に、ソフトバンクはインターネットの申し子のような存在ですし、はじめから常にグローバルな視点でものを考える体制になっているので、良くも悪くも生まれながらに通信会社の文化をベースとしているドコモとKDDIの間のみの競争よりは、新しいものが生まれてくる可能性がぐっと広がってきます。</p>
<p>価格競争は、第3位の事業者がはるかに大きな市場占有率を持つ競合他社のシェアを蚕食していく為には、どうしても避けられない戦略の一つです。通信事業においては、「規模の利益」が厳然として存在しますし、他社にない新規サービスを導入しようとしても、顧客ベースが小さいと投資効率が悪すぎますから、先ずはなりふり構わずシェアップを計らざるを得ないのです。当面ARPUが低くなってしまうのも、止むを得ないこととして、当然折込め済みです。一度に「花も団子も」という訳にはいきません。</p>
<p>しかし、「資金力のないソフトバンクが価格競争を仕掛けるのは自殺行為」という見方は、完全に外れました。ソフトバンクは、「原価5万円の携帯端末を1万円で売る。この差額は後々の通信料収入によって回収する」という、これまでのこの業界の常識であった「販売奨励金制度」を否定し、「端末は正当な値段で買ってもらう。但しこれを24ヶ月の割賦にした上、更に通信料の大幅な値下げをするので、ユーザーの初期負担も毎月の負担も、これまでよりは相当安くつくようにする」という、全く新しいビジネスモデルを導入、これを成功裏に定着させました。これによって、「思い切った低価格政策で新規加入者を増しながら、事業者としても増収増益を実現する」という離れ技を成し遂げたのです。</p>
<p>「販売奨励金制度」は、「長期間端末を保有する一般ユーザーが、頻繁に端末を買い換えるユーザーの犠牲になっている」と言ってもよい「一種のいびつな制度」であり、総務省もこれを問題視したほどです。ドコモやKDDIも、長い間、「このようなビジネス慣習は出来れば止めたい」と考えてきたようですが、どうしても止められなかったようです。しかし、ソフトバンクは、鉄の意志でこれを実行しました。もしこれがやれなかったら、これからシェアアップを計っていかなければならないソフトバンクのような会社は、「先行的に発生する巨額の販売奨励金負担」に押しつぶされて、経営が成り立たなかったかもしれません。</p>
<p>「ソフトバンクの低価格政策は、シェアの小さな事業者のみが取りうるゲリラ戦術に過ぎない」という批判は、或る程度当たっているといえます。しかし、それは何も恥じるべきことではありません。第3位の事業者が上位の事業者と同じ戦略や戦術を取ったのでは、勝てるわけはないのです。第3位の事業者だからこそ使える戦術を使うのは当然のことです。</p>
<p>例えば、或る新しい価格政策を導入したとすると、既存の顧客から折角入ってきていた収入が一次的に減少することは大いにありえます。これを、俗に「カニバリ（食人を意味する英語のCannibalizationから来た言葉）による減収」と呼びます。従って、この減収分を補って余りある「新規収入」、即ち「競争相手から奪った顧客からの収入」がある時にのみ、この新しい価格政策は導入可能になるということです。当然のことながら、既に十分なシェアを持っている事業者の場合は、「新規収入」が「カニバリによる減収分」を補ってくれる可能性は乏しく、従って、このような思い切った低価格政策は採りにくくなるのです。</p>
<p>そろそろ本質的な問題を論じましょう。ソフトバンクは、創業者である孫さんの強い意志によって、「業界ナンバーワンを目指す路線」を不退転の決意で突き進みます。その当面の最大の武器は「カニバリによる減収を恐れない低価格路線」です。</p>
<p>これにより、既に十分な収益力を持っている既存事業者の収益は減少せざるを得ないでしょうが、それは「業界を疲弊させる」ところまでには至らないでしょうし、一方、消費者はその恩恵を直接受けます。サービス競争はますます激しくなりますが、ソフトバンクを含む各自業者は、この為の創意工夫を徹底して行いますから、ここでも消費者は恩恵を受け、関連事業者にも飛躍の機会が与えられます。ソフトバンクが仕掛けている競争は、この意味で明らかに「良い競争」だといえます。</p>
<p>「第3位の事業者は淘汰されていく運命にある」というテーゼは、この事業者が困難な競争に打ち勝っていく「意志」と「能力」を欠いている場合にのみ成り立つテーゼです。第3位の事業者に「強い意志と能力」があった場合は、「競争によってもたらされるカニバリ効果」によって、「ユーザーの平均コストの低減」と「各事業者間の格差の平準化」が同時に起こっていって然るべきです。</p>
<p>この後に来るのは何か？　それは「サービスの高度化」とそれによる「各事業者の収入の増加」でしょう。いや、これは、実際には、「その後」ではなく、「同時に」に起こっていくことになるでしょう。これこそが本当の意味での「良い競争」だと、私は思っています。</p>
<p>サービス競争は、アイデアの競争であると同時に、ネットワークとプラットフォームの地力の競争でもあります。ソフトバンクはこの競争においても勝っていけるのか？　これはソフトバンクの今後を見守っていただくしかありません。しかし、ソフトバンクがそのことを十分に意識していることは、少なくともご理解いただけたと思います。この業界はこれからますます面白くなっていきます。競争はますます激化していくでしょうが、それはあらゆる面で間違いなく「良い競争」であると思います。</p>]]></description>
            <link>http://tedm.sbibusiness.com/2008/05/post-8.html</link>
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            <pubDate>Mon, 26 May 2008 18:20:23 +0900</pubDate>
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            <title>4Gには抜本的な発想の転換が必要なのでは？</title>
            <description><![CDATA[<p>先々回のブログで、私は現在日本で進んでいる４Ｇ議論に触れ、ドコモさんなどが当面提唱しておられる方向（即ち、4Gを現在のLTEの発展型と位置づけ、100MHz程度までの広帯域を使うことを前提に、更に飛躍的なピークデータレートの向上を狙う方向）に、やんわりと疑念を表明しました。今回は、このことについて、もう少し突っ込んだ議論をしてみたいと思います。</p>
<p>勿論、この時点では、このような全く新しい発想に基づく考えは、私の個人的な考えであるに過ぎず、私が現在勤務しているソフトバンクがこのような提案をする用意があるということではありませんので、その点については誤解