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松本徹三(Tetsuzo MaTsumoto)-傍声蛮語‐1: 「敬して遠ざけられる」日本人

傍声蛮語‐1: 「敬して遠ざけられる」日本人

北村隆司さんの「夏炉冬扇」を読んで、しばらく会わないうちに、彼の日本に対する思い入れが随分強くなっているのに驚きました。しかし、考えてみると、これは彼に限ったことではなく、長く日本を離れている人にしばしば見られる傾向かもしれません。

私の場合は、日本を離れて暮らしたのは、米国に9年、韓国に2年の合計11年だけですが、そのかわり、1996年の春から、クアルコムという米国の会社の仕事を10年以上もやりましたので、その間はずっと日本の外から「日本の会社」と「日本人」を見てきたような気がします。

外国の会社の目で日本人や日本の会社を見ていると、「日本人って、やっぱりきっちりしているなァ。信頼出来るなァ」と感心する時と、「日本人って、何でこんなに見当外れなことばかり言うのだろう」とか「何で何時までぐずぐずしているんだろう」とか思う時が、こもごもに交錯するように思えます。
前者の場合は、日本人特有の「律儀さ」「責任感から来る頑張り」「細部にわたる正確さへのこだわり」などが結果に出る場合であり、後者の場合は、「論理性の欠如」「責任の回避」「構想を広げていく積極性の欠如」などが、表に現れる場合だと思います。

私自身は、日本人には珍しい「押しの強い」タイプで、議論をすると早口でまくし立てる悪癖がありましたが、一方では、冗談をよく言うので、愛されるところもありました。総じて、私を日本人と意識する人はあまり居ませんでしたが、それでも何かちょっと良いことをして褒められる時には、みんなが「テッドはサムライだなァ」と言ってくれました。(「テッド」というのは私のネックネームです。)
北村さんの言うような「武士道」というものを、彼等が理解していたとはとても思えませんが、私が男らしく腹を決めて何か大胆なことをやり、それがたまたま良い結果につながれば、私が実は日本人だったということを思い出してくれて、「サムライ」という敬称をつけてくれるのです。
これは、おそらく、新渡戸稲造のお陰というよりは、三船敏郎のお陰といった方がいいのでしょう。

私自身の経験だけから言えば、外国人に日本的な「情緒」が良く理解されたと感じたことは、これまであまりありませんでしたが、日本の女性に対する褒め言葉は、何度も聞いています。特に、現在五十歳代の幾人かの中国人の男性の「山口百恵に対する思い入れ」は相当なものでした。
「彼女の控え目で繊細なところが何とも言えない。『俺は彼女のためなら何でもする』とか、『俺は彼女のためなら死んでもいい』とか、学生仲間でお互いに言い合ったものだ」という話を聞いたことがあります。
「成る程、『控えめ』とか『繊細』とかいうのは、共に『ファジー』に通じ、これが、『日本的な情緒』の特質なのかなあ」と、その時に感じたことを思い出します。

考えてみると、「ファジー(曖昧さ)」ということが、良い意味でも悪い意味でも、日本人の一つの特質なのかもしれません。確か、大江健三郎も、ノーベル賞を受賞した時に、「曖昧さ」をテーマにしてスピーチをしたのではないかという記憶があります。
キリスト教や、イスラム教、ユダヤ教などの一神教の影響を受けることが少なかったこと、異民族の過酷な支配を受けなかったこと、気候が温暖で水資源に恵まれた国土を持っていたことなどが、その理由かもしれませんが、この特質ゆえに、日本人には、「神仏融合」や、「明治維新」や、「第二次大戦後の復興」などが可能になったのかもしれません。
但し、この特質が「国家の品格」に関係してくるとは、私は思いません。

技術の世界でも「ファジー理論」というものがあるように、「ファジーに考えること」は重要です。但し、そのことは、合理的思考とはいささかも矛盾するものではありません。(そもそも、合理的思考を欠く技術論などはありうるべくもないのです。)
ちなみに、「よく分からないことは、仮説で決め付けるのではなく、ファジーな形で残しておくべき」ということは、技術の世界だけではなく、政治や経営の世界でも必要なことです。
トップ経営者は、思想哲学や戦略は明確にせねばなりませんが、自ら細部まで入り込むべきではありません。誤解に基づいた判断をしたり、バランスを欠いた方針に走ったりする危険が、必ずあるからです。会社全体のあり様は、ファジーな目で見ておいた方が、大きな間違いは少ないでしょう。

少し話が横道にそれましたが、では、日本の技術者は、海外ではどのように見られているのでしょうか? 
興味深いことに、ここではファジーさは殆ど見られません。むしろ、その正反対のように思えます。日本人の技術者は、概して細部にこだわり、「それが決まらないと前に進まない」傾向が若干あるように思えます。
誤解されるといけないので、敢えて申し上げますが、通常の開発プロジェクトにおいては、これは決して悪いことではなく、むしろ美点だと思います。とにかく、「きちんと最後まで作り上げる能力」という点では、日本人の技術者は世界に冠たるものです。

従って、日本人の技術集団は、概して、「敬意をもって」見られています。
しかしながら、にもかかわらず、彼等の仲間にはなかなか入れてもらえず、「大きな流れの中核にあって、全体を差配する」立場を占めることが少ないようなのが、若干気になります。
「敬して遠ざける」という言葉がありますが、何となく、そういう感じになってしまうのです。相手から見ると、決して意識して遠ざけているわけではありませんし、ましてや悪意があるわけでは決してないのですが、何となくそうなってしまうのです。
突き詰めてみると、これは、結局言葉の問題なのかもしれません。

これに対して、私の提案する処方箋は単純明快です。
面倒くさがらず、且つ、見当外れなことを言って恥をかくことも恐れずに、何にでも積極的に口を挟んでいくことです。英語が下手なのはさほど気にする必要はありません。「うるさがられるのではないか」と少し心配になる位、「出しゃばる」のが、日本人としては丁度よいでしょう。

しかし、その時に、日本の常識をベースにして話すのは禁物です。「日本ならこの程度やるのは当たり前。何故君等はそんなことも出来ないのか」と難詰するような口調になるのは最悪です。
先ずは、自分が拠って立ってきたものを全て捨てて、白紙になってみんなと一緒に考えようとする姿勢こそが、何よりも必要なのではないでしょうか?

すみません。最後はまた、「品格」とは全く関係のない実利的な話になってしまいました。

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コメント(1)

haru :

ことわざにすると『郷に入っては郷に従う』、『呉越同舟』あたりでしょうか。
日本人と外国人の性格の違いを分析したり、気にしたりするところ自体が『日本人』の性かもしれませんね。神経質だったり無個性だったり極端な所があるとは思っていますが。

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このブログ記事について

このページは、TetsuzoMatsumotoが2008年11月 4日 11:38に書いたブログ記事です。

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松本徹三のプロフィール

松本徹三
1962年 伊藤忠商事株式会社入社
1984年 伊藤忠アメリカ会社上級副社長兼エレクトロニクス部長就任
伊藤忠商事(株)東京本社通信事業部長、同マルチメディア事業部長歴任
1996年 同社退職、ジャパン・リンク設立
1998年 クアルコムジャパン(株)代表取締役社長就任
2005年 同社取締役会長、クアルコム米国本社上級副社長就任
2006年 ボーダフォン(株)(現ソフトバンクモバイル)執行役副社長 技術統括兼CSO就任