
松本徹三(Tetsuzo MaTsumoto)-閑話休題: 平野啓一郎氏の「決壊」を読んで
閑話休題: 平野啓一郎氏の「決壊」を読んで
平野啓一郎さんの1500枚の大作「決壊」上下巻を、大変面白く読みました。
この小説には、現代社会が抱える色々な問題がびっしりと詰め込まれていますが、その主題は哲学的にとても深く、極めて読み応えのある本でした。
平野さんは、10年前の京大法学部在学中に「日蝕」で芥川賞を受賞、その過程で、居並ぶ審査員の先生方が異口同音に「久々の本格派」と誉めそやした程の鬼才ですが、若い方だけに、ネット社会に対する感覚も鋭敏です。そして、この小説の中でも、それが重要な役割を果たしています。
ストーリーはミステリー仕立てで進むので、読者は次の展開を求めて惹き入れられます。主人公は、作者の分身であるかのような、沢野崇という高い知性を持ったエリート公務員ですが、平凡なサラリーマンだった彼の弟の良介が、精神異常者のような何者かによって虐殺され、たまたまその直前に良介と会っていた彼自身が、容疑者として拘留されます。この事件によって、平和だった家族は引き裂かれ、鬱病だった父親は自殺します。
やがて、真犯人の篠原という男が、多くの人達を殺傷する自爆テロを行い、同時に良介の虐殺現場を撮影したビデオを警察に送り届けたので、これによって事件の全容が判明するのですが、沢野崇は、この篠原という男がビデオの中で語っていることに、一部頷かざるを得ず、「自分が良介殺害の共犯者だったのだと言われても、止むを得ないのかも知れない」と感じます。
篠原は、ビデオの中で、自分を「悪魔」と規定し、「『遺伝』と『環境』が人間を選り分ける『現代社会の幸福のファシズム』を、根底から破壊する」と、長口舌をふるうのですが、沢野崇は、その後の毎日の中で、「自分はそのような社会の上部構造の一員で、弟の良介のような『善良な被抑圧者』を、常に無意識のうちに生み出しているのかもしれない」という思いに至らざるを得ず、絶望の淵に立たされて、自らの命を絶つ結末となるわけです。
(作者は意図的にそのように誘導したのでしょうが、多くの読者が、恐らく最後まで、「実は、やはり沢野崇が真犯人で、彼は多重人格者だったのではないか」という疑いを捨てきれなかったのではないかと思います。そして、現実に、沢野崇自身も、拘留の最終段階では、「犯人は自分の分身だった」と感じ出し、もう少しでそのことを自白しそうになるのです。)
実際には、沢野崇と篠原との接点は、偶然の経緯から犠牲者となった弟の良介の存在でしかありませんでした。そして、この物語の怖さは、篠原が良介をターゲットにしたのは、彼の平凡な「ひとり言」のようなブログが、篠原の検索の網に引っかかり、その興味を掻き立てたからに過ぎなかったということです。
篠原は、同じようにネットを通して、自らを「孤独な殺人者」と夢想する少年Aを、協力者としてスカウトし、更に、ネットを含むあらゆるメディアを利用して、閉塞感にとらわれている多くの若者達に、「社会からの離脱」「人間であることからの離脱」を呼びかけ、熱烈な「共滅願望」を掻き立てて、同様の犯行を連鎖的に起こさせようとしました。
また、この小説の副主題は、「酒鬼薔薇聖斗」と名乗って殺傷事件を繰り返した、かつての「少年A」を模したかのような、新しい「少年A」、北崎友哉の物語なのですが、この少年は、インターネットのリテラシーが高く、この面では大人と何等変わることのない能力を、「当然のこと」として持っていました。
母親の彼に対する特異な愛情故に、大きなストレスを感じつつ育ってきたこの少年は、同年代の仲間達から疎外され、そのうちに、一方的な想いを寄せた同級の女生徒を、ボス的存在のクラスメートに奪われたことから、復讐の念に駆られて、妄想を膨らませていきます。
かつてと異なり、今はインターネットの世界が拡大していますから、彼の妄想は様々な形でネット上で具体化され、標的となった女生徒を家に引きこもらざるを得ない状況に追い込む一方、彼自身が、悪魔的なプランを進めていた篠原にスカウトされる結果を招きます。
このような粗筋を申し上げると、「これこそが『ネット社会の陰の部分』を浮き彫りにする物語である」かのように受け取られる方がいるかもしれませんが、この本はそんな感じのものではありません。
「ネット社会」は既に存在しているものであり、従って、その陰の部分も当然存在していることが前提です。あらためてそんなことに注意を喚起する必要はないのです。
「ネット社会」は最早「空気」のような存在として我々の周りを埋め尽くしています。好もうと好まなかろうと、実際にその中で我々は生きているのです。
一部の人達は居心地の悪さを感じるかもしれませんが、これからは、文学も、演劇や映画も、この「ネット社会」という道具立てと無縁では、次第に存在し得なくなっていくでしょう。
実は、私がこの本を読みながら一番感心したのは、ネット上やメディアで語られる、多くの人々の言葉の「自然さ」です。平野さんの書く「ネット語」は、まがうことなく、「ネット語」の現実そのものであり、「電車男」のような作られた物語の中の言葉よりずっと自然に響きます。「メディア語」も同じで、その現代的な「軽佻さ」が極めて自然です。
それだけでなく、この本の中では、子供達の会話、親子間の会話、親夫婦の会話、教師達の会話、刑事達の会話、恋人同士の会話、地下鉄を待っているサラリーマンの会話、居酒屋で合コンに興じている若者達の会話、等々、多くの会話の全てが、「世はすべてこともなし」といった感じで、この小説の背景としての「今の時代」を活写しています。
だからこそ、この本の核心となる、篠原の「激越で反社会的な言葉」や、作者の分身のような沢野崇の「苦悩に満ちた独白」が、より一層鮮烈に、読者の心に迫るのでしょう。
この小説で描かれているものは、その過激さにもかかわらず、我々の周りで、何時どんな形で起こってもおかしくないことのように思えます。
このような社会の中で、我々はこれからどう生きていけばよいのでしょうか? 勿論、このような問に対する答など、ある訳もありません。まさしくこの小説の中で語られているように、現代においては、「悪魔」は存在し得ても、多くの人々にとって、「神」は恐らくは既に死んでいるのでしょうから...。
しかし、我々は、今、現実にこのような社会の中で生きているのです。だからこそ、今この時に、このような小説が書かれなければならなかったのでしょう。
最後に、平野さんには叱られるかもしれませんが、余計なことを一言、二言。
沢野崇が、友人との会話の中で語る「近代思想史についての薀蓄」や、「政治問題についての見解」が、私には若干饒舌に過ぎるように思えました。
勿論、ストーリーの背景として、沢野崇という人物の知性と見識のレベルの高さを示しておく必要はあったのでしょうが、「ここまで書かなくても」という気はしました。
また、沢野崇が自らの口で語る「この事件が示した本質的な問題」の数々も、小説全体の構成から見ると、若干違和感のある箇所がいくつかあるように感じられました。つまり、「小説」と「評論」が混在しているような違和感です。
かつて、若き日のアルベール・カミュは、主人公ムルソーの心象を淡々と語る小説「異邦人」を書き、同時にその哲学的背景を論理的に語る「シジフォスの神話」を書きました。本来「小説」というものはこうあるべきではないかと考えるのは、私だけでしょうか?
それから、これは恐らくプロの作家が背負う「業」なのかもしれませんが、これだけの長編の中で、「鋭敏な神経が剥き出したような」微妙な描写が次々に続くのは、私のような「普通の(文学サークルの外にいる)読者」には、若干重荷であったことも、正直に告白しなければなりません。
例えば、出先からアパートに帰る地下鉄の中で、沢野崇は、「周囲を満たす乗客の群れに曖昧な視線をめぐらせる」のですが、その時、「風景が、酩酊に浸されたように、人や物の縁を脆くしている」ように感じ、「足許からは、軋むような車輪の音が立ち昇って、切れた糸くずのように、いろいろに散らばった車中の会話を、暗い悲鳴のような響きで攫っていく」のです。
また、殺された良介の遺骸確認の為に警察署に出向いた彼の母親について語る場面では、「電話の振動がほどなく止んだ」後に、「静寂が再び彼女に迫り寄って、その鎮めようもない喧騒で意識の肌を掻き毟る」のです。
うーん。書きたいことは色々あっても、プロの作家になるのはなかなか大変ですね。
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